生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

陰謀論は自称「生長の家本流運動」の公式見解だった!?

 衝撃の記事を見た。tapir様の投稿である。引用する。

陰謀論の火付け人は「谷口雅春著作編纂委員会」だった (30066)
日時:2020年07月02日 (木) 21時36分
名前:tapir

ユダヤ民族の守護神と日本民族の守護神との戦い」の火付け人は、なんと「学ぶ会」の御用出版社、(株)光明思想社谷口雅春著作編纂委員会」でした。



同社出版の、『古事記と日本国の世界的使命』の「編者はしがき」から引用します。


“本書に言うユダヤ民族の守護神と日本民族の守護神との戦い」(一六三頁)は、本質的には現代も続いているのであって、その点誤解のないようにお願いしたい。”

(「編者はしがき」『古事記と日本国の世界的使命』p5、責任編集 財団法人 生長の家社会事業団 谷口雅春著作編纂委員会、光明思想社



千葉教区青年会会員様が、水戸黄門さまの印籠のごとくふりかざしているのは、誤解しなかった素直な(愚直な?)「学ぶ」誌の寄稿者である中村晃生氏の文章であり、まさに、上記の一六二頁~一六三頁からの引用です。


つまり、“「ユダヤ民族の守護神と日本民族の守護神との戦い」が、本質的に現代も続いている”との妄言の火種は、「谷口雅春著作編纂委員会」の「はしがき」だったのです。


ということは、「谷口雅春先生を学ぶ会」の中にも、谷口雅春先生が説かれた真理として、この「ユダヤ民族と日本民族の守護神の戦いが現代も続いている」の思想が、脈々と受け継がれ、語り継がれているのでしょうか。びっくり仰天です。


ユダヤ民族の守護神と日本民族の守護神の戦いが現代も続いている」ことを信じていたら、「和解」も、大調和の神示もふっとんでしまうのは、当然です。


編集者としてあまりにもひどすぎる、谷口雅春先生の評判をおとしめるのにも、限度と云うものがあります。



良識ある編集者なら、2020年の現代とまったく情報量の異なる中で、日米開戦の年である昭和16年(1941年)に、世間一般に流布していた話題を元に書かれたという、時代背景を十分に説明して、「戦後の谷口雅春先生は、こういう御見解ではなかった」と、谷口雅春先生への尊敬を込めて、ていねいに説明するのが、正しい仕事の仕方でしょう。


こうして千葉教区青年会会員様のような、時代錯誤の、世間から浮き上がった人間を育成するのが、「学ぶ会」の目的なのでしょうか?

谷口雅春著作編纂委員会」は、「谷口雅春著作 偏見・産出 委員会」に、名称変更されたらよいと思います。

あまりにも知恵が無さすぎます。

 これは最早「知恵が無い」というレベルを超えているのではないか。

 このような文章を読むと、誰もが「谷口雅春と言うのは、ネオナチも真っ青の反ユダヤ主義陰謀論者だったのか!」と、勘違いするに相違ない。

 怖ろしいことである。言うまでもなく、大聖師の教えはそのようなものではない。

 この「谷口雅春著作編纂委員会」の人間は、私よりも信仰暦が長いはずである。つまり、無知なのではない。判っていて、わざと、悪意を持って、大聖師の御教えを改竄しているのだ。

 反ユダヤ主義陰謀論者が編纂したテキストを出版し、その為に裁判までした光明思想社(=学ぶ会)も、大聖師の御教え改竄の共犯者である。

『万物調和六章経』の功徳で癌が消えた話

 様々な「奇跡」話をすると、世の中には「胡散臭い」と思う人もいるのですが、実際には世の中には一見「奇跡」のようなことは、山ほどあります。

 皆様の中にも周囲の人が、或いは自分自身が「奇跡的に助かった!」というような体験をしたことがある人は、決して少ないとは言えないと思います。

 私がかつて修行していた宝蔵神社の再興の祖である光明思想家・谷口雅春先生についても、そのような「奇跡」譚は多くありました。

 実は、私の遠い親戚にあたる田中静壹大将も、谷口雅春先生の著した聖経である『甘露の法雨』を手にして奇跡的に宮城事件(大東亜戦争継続派によるクーデター未遂事件)を鎮圧したことがあります。

 『甘露の法雨』は『妙法蓮華経』の内容を万教帰一の観点から現代語に著したもので、キリスト教神道の信者にも通用するように「仏」を「神」と書いたりしていますが、その説く真理は一緒ですので、田中大将も『法華経』と『甘露の法雨』を死ぬときまで常に身に着けていました。その話はまた機会がありましたらこのブログでも書こうと思います。

 さて、今の宝蔵神社では『甘露の法雨』と並んで『万物調和六章経』と言う、こちらは口語調のお経も使っています。

 最近、ネット上で「『甘露の法雨』には様々な功徳があるが、『万物調和六章経』や『観世音菩薩讃歌』にはそのような功徳は無いではないか、むしろこれらのお経をあげると逆に不幸になった者もいる」等と言う方が居られます。

 そういう人は、「真理」ではなく「功徳」を求める、誠に自分勝手な信仰者であると言わざるを得ないのですが、かと言って人間はやっぱり「幸せになりたい!」という欲求は持つものであり、それ自体は間違った欲求とは言い切れません。

 ただ、『万物調和六章経』や『観世音菩薩讃歌』による奇跡が無いというのは、それは一部の方による悪意ある印象操作でして、『万物調和六章経』や『観世音菩薩讃歌』の読誦によって不幸になるどころか、却って幸福になった方もいるのであります。

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 先日、令和2年7月号の『発祥の光』と言う、兵庫の光明思想団体の機関紙が届きましたが、そこにも『万物調和六章経』による「奇跡」としか言いようのない話が載っていました。

 『発祥の光』にはその方の実名と住んでいる地域が載っているのですが、紙媒体とネット上とではプライバシーの基準が異なりますから、ここでは播磨地方在住のYさんとして紹介させていただきます。

 Yさんは今年2月に食道癌が見つかりました。Yさんには年老いた母と叔母がおり、親よりも先に死ぬわけにはいかない、どうしたらよいものか、と地元の光明思想家の先生に相談しました。

 すると、その光明思想家の先生は「『万物調和六章経』を毎日、読誦されたらいいですよ」とYさんに教えました。

 それからYさんは毎日、暇さえあれば『万物調和六章経』を読誦されていたそうです。

 そしていよいよ、癌を切るための手術をする日になりました。食道癌なので麻酔をかけて手術台に載っていたのですが、麻酔が切れて起こされた後、お医者さんにこう言われたのです。

「2月に確かにあった癌が見つからない!」

 それで検査をした後、このまま帰っても良いということになって、付き添いの子供たちも何が何だか別が判らないまま、コロナが広まっていることもあり慌ただしく帰宅した、と言います。

 「癌が消える!」と言うのは、中々信じられない話ではありますが、このような奇跡が世の中には度々起きています。

 『万物調和六章経』の読誦によってもこのような奇跡が起きたと言う話は、とても有難い話であると思います。

気を付けなければならない

 今日も『観世音菩薩讃歌』で先祖供養を行った。『甘露の法雨』での先祖供養はここ数か月、全く行っていない。

 『甘露の法雨』も『観世音菩薩讃歌』も同じ意味合いの聖経であるから、別に『観世音菩薩讃歌』でも問題ないのである。総裁先生が遠慮して聖経と言わないだけである。

 日蓮聖人も自分は上行菩薩ではない、と謙遜して言っていた。総裁先生も自分が無辺行菩薩であるとは認めないと思うし、日蓮聖人の先例に倣って否定すらされるかもしれない。

 しかし、私は『観世音菩薩讃歌』こそが「天皇国・日本」の実相顕現を実現させる聖経であると信じているのであり、それを著された谷口雅宣先生はまさに無辺行菩薩である。

 なので、その『観世音菩薩讃歌』を『甘露の法雨』よりも一段劣る扱いをされると少し腹が立ってしまったのだが、それは私の傲慢なところである。

 改めて最近のブログ記事を見てみると、確かに私の文章には傲慢なところがあった。反省しなければならない。

一応志恩さんに返事します

 別に私の投稿を批判している訳ではないようですが、総裁先生の幼い頃もよくるという志恩さんの投稿「H様ブログにおけるH様からtapir様宛のコメントですが、当時、原宿本部において、総企画局課長から政治局事務局長になった大峡儷三先生の事実上のアシスタントをしていた私が、当時のことをよく知る者としてコメントさせていただきます。 (29037) 」において私の投稿についてコメントを書いてくださったので、私もコメントさせていただきます。

生長の家の、政治運動としてやったのは
優生保護法改正運動」、それ、一つだけではありませんでした。

 私は生長の家の政治運動が『優生保護法』廃止「一つだけ」とは一言も言っていませんから、これは特に私の投稿への批判では無いでしょうが、第三者が誤解するかもしれないので、ここで念押ししておきます。

 一方、これは明らかに事実誤認です。

つまり、生長の家が、政治運動から手を引いたのが、昭和54年(引用者註:昭和58年の間違いか)だとしますと、
・「優生保護法改正運動」と   
・「日本を守る会」という日本共産党撲滅運動と、
二つの政治運動から 手を引いたのだと思います。

 昭和58年に行われたのは、生長の家政治連合の活動停止だけです。『優生保護法』改廃運動はその後も行われています。私が確認した限り、生長の家兵庫教区青年会は平成に入ってからも『優生保護法』廃止の署名を集めています。

 ただ、生政連活動停止の理由として「『優生保護法』改正の失敗」が当時の『聖使命』に載っています。つまり、生政連では『優生保護法』廃止が出来なかったから(むしろ弊害が目立ったから)その形態での運動を止めただけで、形を変えて運動自体は続けていたわけです。

 なお、平成に入ってから生政連は正式に解散しています。

 また、「日本を守る会」や「日本を守る国民会議」から生長の家が離脱したのは、昭和60年のことであって昭和54年のことではありません。生長の家の反共愛国運動は生政連結成前に始まり、生政連活動停止後も続いていたわけです。

 このことから判るのは、生長の家は政治問題について様々な形でアプローチを行っており、生政連の活動はあくまでもその一形態に過ぎなかった、ということです。また、生政連は恐らくその当時においてもっとも効果的な活動であると考えられたわけで、共産革命防止「だけ」が理由ではありません。

他人の能力不足を非難するのは如何なものか――――tapir様への回答(3)

 tapir様が掲示板で私のことを「某氏」として名指しにするのを慎重に避けつつコメントして下さっています。

 ただ、御教えの先達に対して誠に失礼ではありますが、tapir様の次の一文にはタイトルの言葉をお返ししたいと思いました。

全般的に言えば、「起死回生策(私案)七箇条」は、「生長の家教団」即ち「生長の家本部」に取っていただきたい方策という意味で、信徒個人の事ではなかったのですが、某氏は個人の事と捉えられたところがあり、そこに誤解が生じた点があると思いました。

 私は個人のこととして捉えた覚えは無いのですが、tapir様こそ個人の能力不足を論っているように見える文章があるからです。それは、これです。

2、日本語のレベルが、谷口雅春先生の聖経と差が有りすぎます。(谷口雅春先生の聖経を100点とすれば、ひいき目に見ても50点くらいです。)

①発表当初読ませていただいたものは、日本語の古文文法がでたらめであり、分かりにくい箇所だらけで、読むだけで疲労困憊しました。

②その後、信徒のご好意により古文文法は手直しがされましたが、依然として添削したい部分が多々あります。(虚空→大空、風花→はなびらなど)

 私は総裁先生の文章力が悪いようには思わないのですが、仮にtapir様に劣る文章力であるとしても、「文章力の無い方のお経だから、聖経よりも劣る」みたいな評価は如何なものか、と思います。

 tapir様が慕われるトキさんについても、本部の教勢低下をよく批判されていますが、谷口雅春先生のような文章力、或いは組織拡大力というのは、それこそ千年に一度の存在自体が奇跡な聖人だからこそ出来ることです。

 また、雅春先生の没後の信徒は質が落ちていたのも事実です。安倍信者と化した自称信徒を見るとそれは明白でしょう。そう言う方が出て行ったことはむしろ有難いことです。

 話を戻しますと、総裁先生の文章力が仮に劣るとしても、生長の家の大神の指導を受けて『観世音菩薩讃歌』を執筆されたことには、変わりありません。そういう意味で、私は国語学の方については無知で、古典よりも漢文の方が特異なぐらいの人間なので、文語体の文章としての評価はtapir様が仰られる通りなのかもしれませんが、霊的な意味合いは『甘露の法雨』と寸分たがわぬものであることを信じるのです。

 また、tapir様は次のように言われます。

なお、人は果実を見て判断します。『観世音菩薩讃歌』に救われたという某氏が、掲示板管理人の「「トキさん」に向けた文章は率直なところ、社会人としてどうなのかと思います。 内容以前に言葉遣いに問題があります。生長の家の、社会人の先輩であり、その掲示板を発表の場として使用させてもらったことを思えば、もう少し物の言いようがあるのではないでしょうか。

 ここでもtapir様は私の言い方と言う個人的な欠点乃至能力不足を批判されていますが、それは私が目下の人間ですから、何ら問題ありません。(言い換えると、tapir様よりも真理の面では目上の存在である総裁先生に同じような言い方乃至文章力に関する批判をするのは、それこそ「内容以前」の問題です。もっとも、tapir様が自分が総裁先生よりも上であると思われるならば、それはそれで個人の信教の自由の範囲内でしょうが。)

 ただ、私はトキさんを「社会人の先輩」としては見ていても「生長の家の先輩」とは、見ていません。

 私の令和二年五月二十六日付記事 今さら何を言っているのかにも書きましたが、トキさんが「日野が密告をした」という事実に反することを述べているのは明白です。(一体、私が「誰に、何を、どういう手段で」密告したというのでしょうか?)

 また、そういう個人的なことを抜きにしても、総裁先生の政治的な発言を「開祖と正反対」と述べたり(これは事実に反することであり、御教えの先輩であるならば私よりも真理には詳しいはずですから、このことは一々説明する必要は無いでしょう。もしも本気で自民党不支持が谷口雅春先生の御教えに反すると思っているならば、御教えの先輩ではありません。)、教区職員の待遇が本部職員よりも低いという、御教えとは何ら関係の無い「職場への不満」を匿名で書き込むような方を「生長の家の先輩」として認めるなど、できようはずがありません。

 職場の待遇への不満など、どの職種の人も持っていると思いますが、一々そのような不満に耳を傾けろ、とトキさんが言うのは全く意味不明です。サービス残業をさせているわけでもないのに。

 私の知る「生長の家の先輩」には、生長の家の職員もいますし、一般企業の方もいますが、そういう職場の待遇への不満をいう人など、一人もいません。客観的にみて大変な環境にいる方もおられますし、教団内部で明らかに冷遇されている職員もいますが、アルコールが入っていても職場への不満は言わない、それが私の知る「生長の家の先輩」であり、私もそう言う社会人を目指したいと考えています。

 荒れやすい掲示板の上で極力中立を保つトキさんの運営手腕は素晴らしいと思いますが、「生長の家の先輩」としての評価は別問題です。

 例えば、立場は違いますが山ちゃん1952さんは総裁先生を批判はされているものの、一応「生長の家の先輩」だと思います。山ちゃんさんがトキさんみたいに「自分の職場の待遇」或いは「他人(教団)の職場の待遇」の問題をブログに書かれているのは、未だかつて見たことがありません。

 以上を前段として、その他のことについて答えさせていただきます。

某氏所属の教化部で「浄心行」で使用して、効果があるというなら、使用は教化部の裁量に任されて自由でよいと思います。結果のプラスもマイナスも教区が責任を負うべきものだと考えます。

 この言葉で、tapir様が批判された「讃歌の浄心行への利用」が事実上争点ではなくなりましたので、私がこの問題でこれ以上tapir様に反論する必要性は無いとは思いますが、一応、次の点だけは指摘します。

 『観世音菩薩讃歌』が『甘露の法雨』に劣るというのは、tapir様の主観にしか過ぎません。

 水掛け論になるのでこの程度にして置きますが、私に恋人が出来たことはイエス・キリストが湖の上を歩いたというのと同じレベルの奇跡ですから、当然、供養祭等にも効果があるはずです。

某氏は、私の文章を読み違えていると思います。

「個人」で対社会的運動に取り組むなとは、一言も言っていません。

 失礼ながら、読み間違えているのはtapir様の方です。私は、社会運動こそ組織で取り組む必要があると考えているからです。

過去において、生長の家は「政治運動」に積極的に取り組んだ時期がありました。昭和41年頃から、昭和54年ごろまでの事です。その時期、日本はまだ戦後の混乱の痕跡が残っており、「赤色革命(共産主義革命)」の危機にさらされていました。

いわば、日本国全体が大火事を起こしていたようなものです。消火は、プロの消防隊だけでは間に合わない、一般人も協力しなければならない、その「一般人の協力」が、谷口雅春先生の先導された「政治運動」だったと思います。

昭和53年の生長の家龍宮住吉本宮の御顕祭によって、霊的に「赤き龍」は封印され、昭和54年の「元号法制化」によって、日本人の社会意識の中において、天皇陛下、ご皇室が大切であることが再認識されて、「共産主義革命」の危機は去りました。

 この認識には驚きました。谷口雅春先生の政治活動、社会運動は決して「共産主義革命、防止」のためだけに組織を動かしたわけでは、無いからです。

 共産主義革命防止のためだけならば、どうして『大日本帝国憲法』の復原・改正や『優生保護法』廃止が必要だったのでしょうか?

 谷口雅春先生は「天皇国・日本」の実相顕現のために帝国憲法の復原・改正を掲げられ、また、「天皇国・日本」とは要するに「宇宙の大生命の地上への顕現」ですから、そのためには「優生思想」「堕胎推奨」と言った“生命軽視”という大火事をこそ、消火する必要がありました。

 谷口雅春先生が生長の家政治連合を結成した直接の理由は、共産主義革命防止ではなく(反共の言論活動は戦前からしていた)優生保護法』廃止にあったこと、また、生政連活動停止の理由もその活動では『優生保護法』廃止が実現できなかったことがあげれていること、それは客観的事実です。

 それで、教団としては形を変えて「生命軽視」の社会から「生命尊重」の社会へと転換するために運動をしているわけで、今の安倍政権のような空前の「生命軽視・朝敵売国」政権が誕生した今となっては、それに相応しい対応をしなければならないことは、明白です。

 繰り返しますが、生長の家政治連合の活動は、『優生保護法』廃止という目標に効果的でなかったからこそ(むしろ弊害の方が目立ったからこそ)、停止となったのです。

 一方、環境問題での活動はどうでしょうか?私は、着実に効果を上げていると思います。生長の家の今の活動は、確実に環境問題解決に貢献しています。

さて、それでは「環境問題」は、果たして、その時の「大火事」に匹敵する、生長の家が全力を挙げて取り組むべき運動なのでしょうか。そうであれば、いつまで、その運動に取り組むつもりなのでしょうか。

 これについても、環境問題の活動は「生長の家でないといけなかった」事情があります。というのも、従来の環境問題での運動は殆ど左翼に則られており、純粋な環境問題の運動は殆ど無かったからです。

 「生命尊重」の観点から国際規模で環境問題に取り組んでいるのは、生長の家しかありません。国際環境NGOとして著名なグリーンピースは、堕胎推進派の団体であるとともに、極左勢力が入り込んでいます。もしも生長の家以外に「生命尊重」の観点から国際規模で環境問題に取り組んでいる団体があれば、教えてください。ありませんから。

 生長の家以外に存在しない、それは雅春先生が帝国憲法の復原・改正を言われたころに似ています。今でこそ帝国憲法の復原・改正を唱えている政治家は永田町でもちらほらいますが、昔は生政連関係者以外に帝国憲法の復原・改正を言われている国会議員はいませんでした。

 「生命尊重」の観点から環境問題に取り組んでいる団体が無いのも、同じレベルの危機だということです。

個々人がノーミートを目指すのも、某氏のようにビーガンを目指すのも、一向にかまいませんが、青年会の組織全体として、厳格にノーミートを実行せよというのは、結局、実態に合わせられない人々の間に、「偽善」を生むことになると思います。

 これはまさしく仰られる通りで、だからこそ、私はそう言う教団の「偽善」を批判しているのです。

 隠れて肉を食べるぐらいならば、最初から「ノーミート」など言わなければよいのです。

 なお、「ヴィーガン」を「ビーガン」と表記するのは一体、どういう意図なのでしょうか?ヴィーガニズム実践者に嫌がらせで「ビーガン」と敢えて表記する人がいるのは知っていますが、tapir様がその様な意図ではないことを信じたいです。

生長の家の特色を生かすなら、人類の心から「戦争」の原因となる「争い合う心」、「自己破壊の心」を消し去って、「戦闘行為」を減らすことの方が、遠回りに見えても、よほど「地球環境問題」の改善に寄与できるのではないかと思います。 

ライフスタイルの改善は、あくまでも付随的なものに思えます。悪いとは思いませんが、「人間神の子」の真理を伝えることが、もっと肝要だと思います。

 生長の家は言うまでもなく今でも「神の子・人間」の真理を伝えているわけで、その上での「ライフスタイルの改善」ですから、tapir様の言われていることがよく理解できません。

 「ノーミート」に代表される偽善のことを言っているのであるならば、tapir様自身が「谷口雅宣先生の説かれたこととも矛盾している 」と書かれている以上、それが総裁先生の責任ではないことは十分承知だと思います。

 もしも「神の子・人間」の真理が十分に伝わっていないと、tapir様が仰られているのだとしたら、それは「能力不足」への非難であるようにしか、私には見えません。

 私は『観世音菩薩讃歌』をインドでも伝道しましたが、そうやって徐々に「神の子・人間」の真理は『観世音菩薩讃歌』という無辺行菩薩の著された奇跡の聖経を通じて、確実に弘まっていくと私は信じる次第であります。

 それはtapir様がどういおうと私の信念です。私は日本でも講習会や青年会全国大会の推進に励まさせていただきますし、海外でも『観世音菩薩讃歌』の伝道をさせていただく所存です。

 

森の中のオフィスがオフグリッド(自然エネルギー完全100%)達成!!

 今月号の機関誌を見ると、ある人物の写真を見て気分が悪くなった。その人物は、私を毛嫌いしていることで著名である。

 私は自分から人を嫌ったことは無いが、一方的に他人に嫌われることは、よくある。その人物が私を嫌っていることは多くの人が御存知で、Lineでも私をブロックしている。

 天皇陛下は朝敵のことすらも祈られているのだが、不肖日野智貴は自分を嫌っている人間が機関誌に載っているのを見ると気分が悪くなってしまった。

 しかし、何事も勉強である。私を一方的に嫌っている人間が機関誌に載って、いやでもそいつの顔を見なければならない、とは一体どういうことなのか。

 それは、私がまだまだ悟りが浅いことを自覚させるための、観世音菩薩の導きなのである。

 かつて、今春大阪生学連を卒業されたKさんにこのことを相談すると「一緒に和解の祈りをしましょう」と提案してくれた。

 だが、私はその時はとても感謝したのに、暫くたつと他のことは祈っても、その人との「和解」など脳味噌から飛んでしまっていた。和解する気が無いからこそ、写真を見るだけで気分が悪くなるのである。

 身の回りの全ての人は観世音菩薩である。私を一方的に嫌う人とも和解をしなければならない。

 幼い頃のいじめっ子もそうだが、私を嫌う人と言うのは、判りやすいぐらいの「絶対悪」であることが多い。つまり、私に何の罪どころか、過失すらもないような状況で反感を抱かれることがしばしばあったのである。

 本当は、そう言う人とこそ和解できなければならいのであって、私はまだまだ未熟である。

 かつて、生長の家宇治別格本山に私へ嫌がらせをしてくる職員がいた。その時私は激怒したのだが、その時長田先生が私を「和解の祈りを知ろ!」と一喝し、一緒に和解の祈りをしてくれた。

 その時、長田先生は私以上に真剣に私のことを祈って下さっているのが判った。それで、私は自分の心境を大いに反省した。以降、宇治では私に誰も嫌がらせをしなくなった。

 さて、ようやく本題に入ると、生長の家国際本部が自然エネルギーによる完全な自給自足を達成した。

 電力会社の電線を一切使わない、完全な自給自足体制である。

 森の中のオフィスは決して小規模ではない。そこで、完全な自給自足が出来たことの意味はとても多い。

 最近は、売電目的でメガソーラーの乱開発も目立つ。それによる自然破壊のような、本末転倒の事態も起きている。

 だが、今回のオフグリッド化はもう電力会社の電気は使わないし、売電もしない、ということである。

 そもそも、私は現在の送電システムには違和感を持っていた。折角発電しても、送電している間に約60%のエネルギーロスが生じるからである。

 よく「日本のエネルギー自給率は低い」等と言われるが、送電だけで半分以上もエネルギーが消えていては、エネルギー自給率が下がっても仕方ない。

 今回の森の中のオフィスのケースを活かして、地域ごとに自給自足出来る体制を整えると、エネルギー安全保障の問題も解決しやすくなるのではないか。

 無論、そのためには、原子力発電を撤廃したうえで自然エネルギーに転換していくことも不可欠である。

 森の中のオフィスは蓄電池の開発で自然エネルギーと電力安定供給とを両立させたが、これをもう少し範囲の広い地域社会レベルで行う場合は、揚水式水力発電の活用等も必要になるであろう。

 いずれにせよ、森の中のオフィスの例は今後のエネルギー問題解決に多くのヒントを与えてくれるものになると信ずる。有難いことである。