祭神変更というデマ――tapir様への回答(1)
私は気付かなかったが、今朝コメントを読んでtapir様が私のブログにも関係のある文章を書いていてくださったことに気付いた。
そこで適宜引用しつつ反応させていただこうかと思う。
通達支持と不支持の意見の比較と考察 ― 1 (28036) |
|
まず、大前提として「住吉大神のお札が無い=住吉大神を祀っていない」とはならない、ということである。
龍宮住吉本宮では確かに住吉大神への祭祀が行われているが、神札の配布はまた別問題である。
生長の家の運動方針で造化の三神の神札作成を最優先にしている結果なのだろうが、いずれ住吉大神の神札も頒布はされるであろう。
なお、『宗教年鑑』によると生長の家は二つの神社(龍宮住吉本宮と宝蔵神社)を包括しているが、この神社には宗教法人格がないことになっている。
実務上は、龍宮住吉本宮は「生長の家総本山」(これも法人格が無い)の、宝蔵神社は「宗教法人生長の家宇治別格本山」の管轄下に置かれているわけだが、私が見た限り昔からそうなので、或いは谷口雅春先生の意思で神社は宗教法人には相応しくない、ということになっているのかもしれない。
『神の真義とその理解』を読む限り、谷口雅春先生は神社が宗教法人であること自体に否定的でそれを政治活動にも反映させようとしていたわけだが、仮に生長の家政治連合の主張が受け入れられて(どういう制度設計にしようとしていたかは判らないが、例えば)神社が宗教法人とは別の「神社法人」となった場合には、龍宮住吉本宮と宝蔵神社も新たに法人格を取得させていたのだろうか?
こういう話をするのは、もしも龍宮住吉本宮と「宗教法人生長の家」が別法人であれば、話はまた変わっていたと思うからである。いずれにせよ、現状では龍宮住吉本宮は生長の家国際本部と会計も人事も一体化しているのであるから(「宗教法人生長の家宇治別格本山」の法人格が独立している理由も不思議だ)、本部の運動方針によって神札頒布の方針が左右されるのは、当然のことではある。
宝蔵神社も龍宮住吉本宮も国家神道体制下の神社とは明らかに違ったものであるが、今でも両神社の巫女は明治神宮や靖国神社で研修を受けるので、雅春先生は神社本庁包括下の神社(靖国神社は違うが)に準ずるものとして両神社を考えていたようである。
そこら辺の雅春先生の構想がどうだったのか、最終的に宝蔵神社と龍宮住吉本宮とをどういう形態に持っていこうとしていたのかは、大いに気になる處である。