生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

大乗の宗教は政治・社会問題に「中立」であってはならい――tapir様への回答(2)

 これは私の持論ですが、政治的に中立な宗教というのは、小乗の宗教はともかく大乗の宗教としては偽善であると考えています。というのも、政治(権力者やその候補)が宗教に対して中立では無いのに、宗教が政治に対して中立であるならば、結果的に宗教家が権力者に追随するということになり、延いては、もっとも道徳的であるべき宗教家が権力者の非道を眺めるだけと言う事態に陥るからです。

 実際、過去には宗教が「政治的中立」を貫いた結果、現在断罪されている例もあるのです。

 それは、ロシア正教会です。二月革命の時、ロシア正教会は「中立」を守って積極的に帝政を守ろうとせず、結果的に臨時政府を追認した、そのことが今非難されています。

 正教会では為政者のことを祈ります。日本正教会は 天皇陛下のことを祈って下さっています。それは素晴らしい事なのですが、同様にロシア正教会はニコライ二世のことを祈っていたにもかかわらず、いざ革命でニコライ二世が失脚すると、彼を助けようとはしなかった、じゃあ、彼らの祈りは言葉だけだったのか、と非難する人が出てきても、それは仕方がないことです。

 無論、当時のロシア正教会には総主教がいないという事情があり、さらにその総主教制を廃止したのは他ならぬ帝政であったという事実もあるのですが、いずれにせよ、ロシア帝国も臨時政府もソ連も宗教に対して中立ではなかったわけで、宗教家が政治的に中立を守るというのは、総主教制を廃止したロシア皇帝のために祈り、その皇帝が殺されても眺めているだけ、そうこうしているうちにソ連になって本格的に宗教が弾圧されるようになったから慌てて逃げる、残された信者の相当数はスターリンに殺されてしまった、と、政治的な動きを何もしていないからこそ、逆に犠牲者を増やす羽目になることもあるわけです。

 私がどうしてこういうことを言うのかと言うと、tapir様が次のような「提言」をされているのを見たからです。

1、「實相」額の前に経本を安置した「七重塔」の縮小模型及び「造化の三神」社殿を設置するという通達の即時撤回


2、財団法人生長の家社会事業団との間での、『生命の實相』、『聖経四部経』出版に関する著作権交渉を開始する

生長の家本部の利益を考えずに、信徒・読者の手に『生命の實相』『聖経 四部経』が広く行き亘ることを第一に考えていただければ、話し合いは、思いの外、順調に進むと思います。 


3、造化の三神を生長の家総本山の主祭神としたことの再検討

・造化の三神を主祭神として生長の家総本山の龍宮住吉本宮に祭祀することの意義を明らかにする。幽の幽なる神を顕祭できるのか等、住吉大神の顕祭との関係を明らかにし、祭祀の正当性を信徒の総意にするべく努力をする。


4、谷口雅春先生御著作の『聖経 四部経』と、谷口雅宣先生御著作の経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』との格付けを明らかにする

・経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』は講話の中のテキスト、サブテキストとして使用するのは良いが、供養祭、浄心行、早朝行事等では『聖経 四部経』に代わるものとして使用することは止める。供養祭、浄心行、早朝行事等で使用するのは聖経のみとする。谷口雅宣先生が『経本』は“「聖経に取って代わるもの」を意図していない”と言われた原点に戻す。

http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2012/05/post-bcc3.html


5、谷口雅宣先生・生長の家本部の重要事項を独断専行で決定し、地方教化部が無条件で容認することになる現行制度の見直し

・重要事項については、谷口雅宣先生・生長の家本部が独断で決定したことを無条件で容認することになる現行制度を見直す。重要事項については、広く地方信徒の衆議を集めて、議論の上、決定、場合によっては否決できる制度を整備し、実施する。


6、生長の家における、天皇・皇后両陛下を始めとする皇室を尊敬申し上げてきた歴史、並びに日本国の歴史を学び、その現代的な意義を明らかにする

古事記日本書紀神話の天照大御神を祖神とする天皇陛下生長の家創始者谷口雅春先生が御尊敬申し上げてきた歴史を学び、その現代的な意義を明らかにする。
大東亜戦争について、全面肯定でも全面否定でもない、是々非々の評価を行う。
・重版保留聖典の再版検討。


7、運動の見直し―「生長の家人類光明化運動」の復権 

・『生命の實相』を根本聖典とする生長の家の御教えの「求道と伝道」を中心に据えた立教当初の「生長の家人類光明化運動」を復権する。

・環境運動等の対社会的運動は原則として取り組まない。取り組む場合もあくまでも副次的なものとする。
・人間神の子を輩出する、本部練成道場並びに教区の、練成会の開催を支援・強化する。
・誌友会、母親教室開催を、積極的に支援・推進する。

 この「1」「3」については正直同意は出来ないですが、他の部分については「なるほど」と思う部分もあります。

 が、「4」については明らかに私への批判である部分がありますので、まずここに反論させていただきます。それはこの部分です。

経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』は講話の中のテキスト、サブテキストとして使用するのは良いが、供養祭、浄心、早朝行事等では『聖経 四部経』に代わるものとして使用することは止める。

 私は『大自然讃歌』を浄心行で使ったケースは知らないのですが、『観世音菩薩讃歌』を浄心行で使おう、と言うのは私の提案であります。

 これは「5」とも関係してきますが、教団は決して本部の独断専行の組織ではなく、総裁独裁の体制ではなくて、地方が自主的に「こうしたい!」と言えば大抵実現します。最近某掲示板で話題の妹尾先生の祈りもその一例です。

 で、私は昨夏の青年練成会において橋本百合子先生らと3つの提案を行い、その全てが青年会の教区委員会で全会一致で可決され、さらに教区の七者会議でも全会一致で可決されたという経緯があります。その3つは次のようなものです。

1.開会式には「生長の家高校生連盟の歌」を流す。

2.浄心行では『観世音菩薩讃歌』を使用する。

3.堕胎に関する話を盛り込むこととする。

 この3つはいずれも本部の方針にあるものではなく、教区の青年会の発案が教区行事として正式に認可されたわけです。

 ではどうして『観世音菩薩讃歌』で浄心行を行ったのか、それは『観世音菩薩讃歌』が聖経『甘露の法雨』と実質的に同じ功徳のある経典であることを明徴にするためです。

 ちなみに、これまでも浄心行を『天使の言葉』で行う教区がありました。つまり、浄心行は『甘露の法雨』でないと絶対にいけない、ということではなく、同じ功徳のある聖経であるならば問題が無いということなのです。

 『観世音菩薩讃歌』が『甘露の法雨』と同じ功徳のある経典であることは一度それを読誦すれば一目瞭然であり、失礼ながらtapir様はホンリュウ派の偽情報を信じてしまい、『甘露の法雨』を読誦されたことが無いのだと思います。

 また、『観世音菩薩讃歌』には立派な「現証」もあります。

 ご存知の通り、私は女性に縁のない男として著名でありました。tapir様も御存知のことと思います。何故実際あったこともない人間がそれを知っているのかは不明ですが、訊けさんの投稿を見ると私が女性と縁がないことは「会わなくとも判る」話なのでしょう。

 そんな私ですが、ここ最近は先祖供養で読誦するのは主に『観世音菩薩讃歌』であって、『甘露の法雨』は全く読誦していません。そんな中、奇跡みたいな出来事が起きたわけで、昨日もこんな感じです。

 

 ・・・こんな奇跡、そうそうないので、幸せ自慢をすることをお許しください。あるリア友にも「嘘でしょ」と言われました。これを見ている読者の方も驚かれていることでしょう。

 誰がどう考えても、これは『観世音菩薩讃歌』で先祖供養をしていた功徳です。私の力のわけ、ありません。

 これでtapir様も『観世音菩薩讃歌』の功徳については痛感されたと思いますが、さて本題に入ると「7」です。

 この一文は、おかしくありませんか?

環境運動等の対社会的運動は原則として取り組まない。取り組む場合もあくまでも副次的なものとする。

 いやいや、生長の家は大乗の宗教なんですから、取り組まないとダメでしょ!

 tapir様には釈迦に説法だとは思いますが、生長の家は菩薩行に邁進する宗教なのです、それも、実生活において菩薩行を実践する宗教なのです、商売すらも愛行としてやらなければならない、生長の家信者であることを明言している大物宗教家としては稲盛和夫先生が居られますが、稲盛先生はまさに商売も政治も愛行として全力で取り組まれています。

 稲盛先生が結党に参画した日本未来の党が成功していれば、今頃原発もなくなって日本は平和になっていたでしょうが、民主党政権時代に稲盛先生が政府の依頼で全日空を再建したことも、まさに菩薩行として素晴らしい愛行でした。

 こういう経営的なことは稲盛和夫先生レベルでないと出来ないでしょうが、一方で「数は力」となる分野においては、生長の家の組織会員が一丸となって行う必要性のあるものもあります。

 ここで勘違いしてはならないのは、生長の家で言う伝道というのは、稲盛和夫先生のような人間を育てることであり、ロシア革命の時に皇帝を見殺しにしたような輩を育てることではない、ということです。

 教団が配布した今回の新刊書でも「生長の家信徒行持要目」の一番最初に「天皇の恩、国の恩に感謝しなさい」とありますが、ただ天皇陛下に口先だけ感謝しておいて、「譲位」騒動を始めとする朝敵売国路線を推進する自民党公明党に投票しているようでは、心の底から感謝しているとは言えない、本当に感謝しているならば、それは必ずや選挙の投票先にも反映されるというものです。

 そういう意味で、生長の家が政治的に中立であることは、絶対にあり得ません。

 また、スーパーシティ構想と言うトンデモナイ法律も可決しましたが、これは日本を中国並みの監視社会にする法律で、片山総務大臣は中国の協力を得て推進することを明言しています。

  

 生長の家がこの法案に反対したのは当然のことで、もしも生長の家がこんなトンデモナイ法律ができるのを黙って眺めていたら、ソ連成立を阻止しようとしなかったロシア正教会の二の舞になってしまいます。

 で、いざ中国並みの監視社会になって、中国と連携した独裁国家になると(一帯一路で経済的にも安倍政権は中国依存を強めており、そのせいでコロナ騒動でも私たちは困ったわけですが)、反対の声を上げようにも上げられないことになりかねないのです。

 宗教が政治的に中立であってはならない、と言うことはロシア革命を始めとする様々な歴史が証明して下さっていることなのです。

 谷口雅春先生もそのことを当然、理解されていました。谷口雅春先生がどれだけの想いで政治運動や社会運動に取り組まれたか、を考えた時、tapir様の件のセリフは決して出て来ないはずなのです。