省略された神想観は二つだけじゃない
『“新しい文明”を築こう』において、『聖光録』にのっていた「大日本神国観」と「宇宙浄化の祈り」が省略されている、として騒いでいる人がいる。
だが、省略されたのはこの二つだけではない。
省略された神想観は、
・蓮華日宝王地観
・観普賢菩薩行法
・自己礼拝の神想観
・神を愛する神想観
・随時随処神想観
・絶対者と一体になる神想観
・就寝前一切を許し感謝する祈り
・睡眠中に神の智慧を受ける祈り
・朝、目覚めたときの祈り
・朝、太陽に向かっての祈り
・竜宮・平和・普賢観
・大日本神国観
・伊勢神宮の神前に於ける神想観
・日本国実相顕現の祈り
・人類光明化運動推進のための祈り
・住吉大神宇宙浄化を祈る神想観
・遠隔思念の一形式
と、掲載されたものよりも省略されたものの方が、はるかに多いのである。
省略されたものの中には、確かに「国家主義的」と判断されそうなものもあるが、そうでない、無難なものもある。
これを見ると、今回の編纂では「問題があるから、載せない」と言う訳ではなく、逆である。「問題が無くても、載せない」つまり「載せるべき積極理由が無いと載せない」という、編集方針があったことが判る。
例えば、省略されていないものに「如意宝珠観」がある。これは龍宮観の代表的なものである。そして、それ以外の龍宮観は全て省略されている。
この様に「必要最小限度」の神想観しか載せないことになったのは、もっぱら編集上の都合ではないだろうか。
半分以上のページを谷口雅宣先生と谷口純子先生の文章に充てているのであるから、編集者としては断腸の思いで省略した神想観も多かったことと思う。だが、省略した神想観について「もう、実修するな」というつもりではないだろう。
編集者はそんなことを毛頭思わずに、ただ紙数とにらめっこしていただけではあるまいか。いくら何でも「和解の祈りをするな!」等と思いながら編集していたはずがないからである。(もしもそうであれば、「大調和の神示」を真っ先に省略していたことだろう。)