生長の家正統派青年のブログ

生長の家西播青年会委員長のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

大聖師の家系が明らかになる

 かつて谷口雅春先生(無論、谷口雅宣先生も)が藤原朝臣であると聞いた時は、私も藤原朝臣であるから親近感を抱いたものである。

 奇しくも、反生長の家のブロガーである山ちゃん氏が谷口家の家系について詳細な研究を発表された。

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 その結果によると、谷口家は藤原秀郷の末裔である波多野家の分家である。「内大臣鎌足曾孫左大臣魚名裔」(魚名流)と言うことになる。魚名流の総本家は四条侯爵家である。

 藤原秀郷以降の系譜を示すとこうなる。

秀郷――千常――文脩――文行――公光――経範――経秀――秀遠――遠義――義通――波多野忠綱――波多野義重――波多野義泰――波多野泰重

 この波多野泰重が谷口泰重とも名乗っていたらしい。彼は南北朝時代の人物で新田義貞に仕えていた。

 山ちゃん様の記事によると、丹波波多野家は谷口泰重の父の義重の曾孫の波多野経基から始まっていると言う。ネット上では波多野経基が波多野泰重の孫であると言うものもあれば、全然別の血統だと言うものもあって、どの情報もそれぞれ別々の家系図を根拠にしているようなので、俄かに断言はしがたい。

 一つの作業仮説を言わせていただくと、山ちゃん様とは若干意見が異なるが、私は谷口家と丹波波多野家であれば谷口家の方が本家ではないか、という仮説を持っている。

 『神戸地誌』によると谷口泰重は「人皇九十九代後光嚴院ノ御宇」に湊山に入植し、今の烏原水源地のあたりに住んだと言う。その場所の地名から「谷口」の名字になったと思われるが、問題はそれが後光厳天皇の御代であった、と言う事であろう(それにしても「ごこうげんてんのう」と入力しても変換されないのは問題である)。

 後光厳天皇正平一統と言って、室町幕府内ゲバによって北朝が一時的に南朝に降伏し、北朝上皇天皇・皇太子らが全員南朝に誘拐された後、北朝側が擁立した天皇である。

 つまり、谷口泰重が大楠公と一緒に戦った湊川の戦いよりもかなり後であるから、彼の晩年の本拠地は今の烏原水源地のあたりであると考えて問題は無い。もっとも今の湊山町には烏原の地は無く、烏原水源地は千鳥町であるから厳密には違うのかもしれないが、湊山町から烏原水源地は歩いてすぐの距離である。

 そうすると、丹波波多野家は谷口泰重の子孫が湊山の地から出て行って丹波に行ったのであろう、という仮説も成り立ちそうである。

 その後の系譜については、山ちゃん様が「谷口治郎右衛門⇒谷口左衛門⇒谷口重兵衛⇒谷口音吉」と記されている。谷口音吉様が大聖師谷口雅春先生の父親である。

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 無論、この「⇒」の間は省略形であるし、また「治郎右衛門」「左衛門」「重兵衛」と言うのは通称であって実名ではない。ただ、当時の住民票に当たる『宗門人別帳』には実名ではなく通称で記されているはずなので、彼らの実名を知ることは困難である。

 従って、山ちゃん様は調査しうる限り最大限の結果を出されたものと思う。生長の家の信徒として感謝したい。