生長の家が女性の経済的能力保有を肯定した理由
Twitterを見ていると「生長の家は女性差別である」と言うようなデマを流しているアカウントが少なくないことが判ります。
特に「生長の家は女性の社会進出を否定している!」とか言われると「仕事をしている生長の家信徒の女性、沢山いるんですけど?」とツッコみたくなります。あまりにもバカバカしいので反論する気にはなれないのですが、生長の家の信徒には自明のことであっても外部の方は知らないことがあっても可笑しくは無いので、念の為に説明したいと思います。
もっとも女性の社会進出を推奨していると思われると今度はネトウヨや日本会議から「フェミニスト」のレッテルを貼られそうなので怖ろしいのですが。
生長の家では夫婦の調和を説きます。そのため、夫と妻とがそれぞれの役割を果たすように求めます。但し、それは女性が働くことを否定するものではありません。
それどころか積極的に「女性は経済的能力を持つべきである」と言うのが生長の家の考えです。いわゆる「女性の社会進出」に否定的な日本会議とは全く異なります。
確かに大聖師・谷口雅春先生は「男性が働き、女性が家庭で」と言うようなライフスタイルを前提にした指導をされてはいます。しかし、それが雅春先生存命中の社会通念に合わせた指導であることは、雅春先生自身が著書で明記されています。
夫婦には分担があり、一家においてその受け持つべき役割は異なっています。外から収入を運んで来るのはおおむね良人であり、それを、料理費に、住宅費に、被服費に、消費するのは夫人の役目であるように考えられています。ある家庭ではその逆が行われ、ある家庭では夫婦共稼ぎに外から収入を運んで来るために、それを消費するのは家政婦や女中であったりすることがありますが、これは大多数の家庭ではありませんから、今しばらく考えないことにいたします。(谷口雅春『生命の実相 頭注版』「第29巻 女性教育篇」25頁)
つまり、雅春先生の時代には女性が主として稼いできたり、夫婦共働きであったりするのは「大多数の家庭ではありません」と言う状況であったのでそれに合わせて指導されたのであって、今みたいに夫婦共働きの方が「大多数の家庭」である時代においても共働きについて「考えないことにいたします」と言われるはずがありません。もしも現代に谷口雅春先生が生きておられたら共働きの家庭に合わせた指導をされていたことでしょう。
そもそも谷口雅春先生ご自身が一種の共働きの家庭であったと言っても良いのです。谷口雅春先生の奥様の谷口輝子先生は生長の家白鳩会総裁として共著を含めると23冊もの本を出版されていますが、奥さんが23冊も本を出している作家の家庭があれば「共働き」であると言えるでしょう。
ただ、それと谷口雅春先生が今の日本の共働き推奨の風潮に賛同されるかは、又別問題です。谷口雅春先生の頃の「共稼ぎ」の夫婦は二人の収入があるため裕福で女中もいる、そう言う家庭が少なくなかったからです。
今の日本では男性の給料も下がっているのに、奥さんの方は非正規のこともある訳ですから、夫婦二人分が働いていても全然豊かではない、そう言う家庭が沢山あります。そのような家庭を生み出した原因はもっぱら自民党政権による新自由主義政策が大きい訳ですが、谷口雅春先生は政治活動もされていましたから、もしもご存命であれば恐らく新自由主義には反対されたことでしょう。
なお、私は「共働き」と言う言葉を使いましたが、雅春先生は一貫して「共稼ぎ」と言う言葉を使っており、その理由も述べています。
「家庭の婦人」を働かない婦人だと観る観念は、男性の「俺は妻を養っている!」という言葉を生むのです。「俺は妻を養っている!」――この、良人の不公平な傲語によって、いままでどれだけ多くの女性が蹂躙(ふみにじ)られてきたことでしょう。そのくせ、家外と家内との相異こそあれ、妻も良人も同じように働いているのです。稀には有閑婦人と称する種類の女性がありますが、そんな変態な一部の婦人のことはここには申さないことにいたします。ことごとくの「家庭の婦人」を有閑婦人と考えるのはまちがっているのです。大多数の家庭の婦人は、社会に出て働いている男性の会社員や銀行員や官吏や公吏よりも長時間猛烈に働いているのです。彼女たちはまだ良人が眠っている薄暗い時から起き上がって家の内外を掃除し、朝の炊事その他いっさいの家庭の支度万端をするのです。これをどうして「働かない婦人」だということができましょう。料亭や船舶で炊事をする男は「板場」であるとか、「炊事夫」とか料理長とか司厨長とかいって月給を貰います。「家庭の婦人」はそれらの人よりいっそう朝早くから同じような仕事を励みながらも、良人からは「お前は家にいて働かないで飯を食っているのだ。わしはおまえを養っているのだ」と罵られがちです。男性はも少し「家庭の婦人」の働きの実相について同情がなければならないと思います。この同情がないことが、家庭の空気を冷たいものにし、男性を家庭外の誘惑にかかりやすくならせる原因の一つになっているのです。
家庭でいくら働いても、女性自身でさえも「家庭の婦人」を「働かない婦人」のうちにともすれば入れようとするのはなぜでしょうか。その理由をここに考えてみたいと思います。それは「家庭の婦人」は朝早く起きて働いても月給を貰わないからです。月給を貰わない働きは経済活動の中にいれられず、不生産的だと誤解され、時には働きが全然ないと軽蔑せられ、「わしはお前を養っている」と言われるのです。しかし、静かに考えてごらんなさい。「家庭の婦人」はどんなにか働いていることよ!(引用前掲書、27~29頁 振り仮名の一部は括弧書きにした)
これも当時の状況であって今とは異なる面もあるでしょう。
今の時代に「お前を養っている!」みたいなベタなセリフを言う男は少ないでしょうし、逆に女性の方は家事の方は時間短縮されても共稼ぎで自分も仕事をしないと生活費に困るような人も少なくないでしょうから、もしも雅春先生が今ご存命であれば「共稼ぎでないと生活できない貧困層」のことも触れられているはずです。
それはともかく、自民党から共産党まで多くの政党が一丸となって唱えている「女性の社会進出」とか「女性も働く時代」とか言う言葉には、雅春先生の言われる通り賃金労働のみを労働と見做し、家事労働を軽視している風潮があるように感じます。
女性の就労は尊重されないといけませんが、それが家事を行う女性を否定するようなことであってはいけません。谷口雅春先生はそういう当たり前のことを言っているだけであって、それを「女性差別」扱いするのは左翼勢力によるイチャモンの類です。
谷口雅春先生は女性がいざ離婚しても自分で生活できるだけの能力を持っている方が夫婦間の愛情は深まるという考えでした。
ですから、女性は、経済的理由でなしに、ただ純粋な愛情のゆえに、男性を選択し、その男性と傷害の伴侶となろうとするには、女性自身がまずいざという時たちまち独立(ひとりだ)ちできるほどの経済的にも能力を持っていなければならないのです。女性が経済的能力を握っている必要は、決して男にたてつくためでもなく、また、必ずしも、結婚後、家庭を出て社会に働けというわけでもなく、自分の良人に対する愛が、純粋に「愛そのもののための愛」であって、生活保証を得るための手段的な不純分子を混入していないということを自分自身にハッキリさせるために必要なのです。
夫婦関係が、女性側に生活保証を得るための経済的理由を混入している場合は、最近はいかに「純粋な愛」によって結ばれた夫婦関係でありましても、そこに経済的従属関係ができ上がり、男性は経済的に主人公となり、女性はそれへの寄生的生活者となって女性そのものが完全な一個の独立人格たる自覚を失ってしまうことになるのであります。この「自覚の堕落」こそ女性が自覚せずして、自己自身の能力を縛っていることなのです。(引用前掲書、6頁 振り仮名の一部は括弧書きにした)
このように生長の家は女性が稼ぐ能力を持つことはむしろ推奨していますが、それが家事労働を軽視することになってはならないという考えでもありますので、自民党政権や一部左派が主張している「配偶者控除廃止」(主婦への増税)による女性の社会進出は生長の家の教えに反すると言えるでしょう。
生長の家と日本会議の女性観の根本的な違いはまた稿を改めて論じたいと思います。
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