大聖師の家系が明らかになる(2)
山ちゃん氏がブログにおいて大聖師の家系図をさらに詳細に調べた結果を発表されていた。
山ちゃん氏は私が「反生長の家の人」として紹介されたことを遠回しに咎められていたが、人類光明化運動の不動の中心である「生長の家の大神――総裁・副総裁――御教え」に反対しているという意味で「反生長の家」と述べたのであって、彼の信仰を反生長の家的と言っている訳ではない。山ちゃん氏は元々生長の家青年会で活動されていた先達であるから、今からでも生長の家に戻ってきて大先輩として指導していただきたいものである。
それはともかくとして、一介の歴史好きとしては山ちゃん氏による調査の学問的クオリティの高さには感嘆するばかりである。
谷口家の系図を推察
天兒屋根命(始祖)⇒廿四世大職冠藤原鎌足⇒淡海(不比等)⇒房前⇒魚名⇒藤成⇒豊澤⇒村雄⇒秀郷(從四位下武藏守藤太鎭守府將軍)⇒小山氏⇒千常(從四位下鎭守府將軍)⇒公光(相模守)⇒佐藤氏⇒公俊(相模守)⇒波多野(佐藤?)經秀⇒波多野(佐藤?)遠秀(從五位下刑部丞)⇒波多野(佐藤?)遠義(藤原師綱の娘・筑前守)⇒波多野義通(筑前守次郎鎭守府將軍)⇒波多野忠綱(?忠經)⇒波多野義重⇒波多野義泰(?通泰)⇒波多野泰重(谷口泰重)弘安元年生まれ→正平九年十一月三日歿⇒谷口泰茂(次良左衛門)⇒谷口康長(次郎)⇒谷口泰吉(次郎左衛門)⇒谷口泰隆(次郎)⇒谷口泰忠(甚左衛門)⇒谷口泰清(次郎左衛門)⇒谷口泰家(次郎)⇒谷口泰親(次良左衛門)⇒谷口泰道(甚左衛門)⇒谷口泰茂(市左衛門)谷口康重(次郎左衛門)⇒谷口泰茂(次良左衛門)谷口康常(文左衛門)⇒谷口康貞信(次良左衛門)⇒谷口康言(文左衛門)⇒谷口忠當(文左衛門)⇒谷口重兵衛⇒谷口音吉⇒ 谷口雅春
(則天去私「谷口家系図」より)
山ちゃん氏のこの調査は諱と通称の区別をきちんと行っており、通称は括弧内表記としている。
この区別は極めて重要である。というのも、中世や近世においては通称を世襲することが珍しくなかったからである。
例えば、谷口家においては「次良左衛門」が4名いて、同じ発音と思われる「次郎左衛門」も3名いて、通称のある16名のうち7名が同じ名前である。このようなことは近世文書では珍しくない現象であるが、通称だけを調べて発表する方がしばしばいるため「一体、どの次郎さんなんだ?」と混乱することが少なくない。その点、山ちゃん氏は諱と通称の区別をきちんとしておられるため、学問的価値が高くなっている。
元々、日本では律令において全ての国民の「姓」と「諱」を戸籍に登録することが定められていた。
よく「昔は名字のない人もいた」と言う人がいるが、名字と姓(本姓)は本来異なるものであって、本姓は奈良時代に被差別民を除くすべての国民に天皇陛下から下賜された。そのことは律令国家時代の戸籍を見ると明白である。
だが、律令国家が崩壊すると本姓が不明瞭となり、また諱についても改まった場ではあまり使われなくなり、江戸時代になると幕府や藩も諱ではなく通称で住民を記録するようになってしまった。だから私は過去の記事でこう記した。
無論、この「⇒」の間は省略形であるし、また「治郎右衛門」「左衛門」「重兵衛」と言うのは通称であって実名ではない。ただ、当時の住民票に当たる『宗門人別帳』には実名ではなく通称で記されているはずなので、彼らの実名を知ることは困難である。
従って、山ちゃん様は調査しうる限り最大限の結果を出されたものと思う。生長の家の信徒として感謝したい。
つまり、私は「実名(諱)」を調べることは「困難である」として、流石の山ちゃん氏もそれを明らかにすることは無理であろうと決めつけてしまっていた。この点、山ちゃん氏に対して非礼であったこと、謝罪する。
山ちゃん氏のブログには私の非礼を暗に咎めるようなことを記されているような記事もあった。
昨日、『谷口家の家系図』というのを詳細に記載したが、更に調べて行こうと考えています。そうした気持ちがその証左のあらわれです。
普通ならば、そんな時代の経過したことはわからないだろうと諦めてしまうのが普通であります。だが、これまでの数々の発見と著作の新たな発見など私個人のいくつかの新たな“見出し”は枚挙に遑ない。それが私の自信ともつながった。
「そんな時代の経過したことはわからないだろうと諦めてしまうのが普通であります」との一句に、先日の私のブログ記事の内容を連想した。私が「彼らの実名を知ることは困難である」と書いたら、山ちゃん氏はその困難なことをやり遂げられた。これは偉業であると言わざるを得ない。
山ちゃん氏に心より感謝申し上げる。