皇后陛下とはいかなる御存在か
保守を自称するものが何故か、皇后陛下や皇太后陛下を非難しているのを見るにつき、私の中で抑えきれぬ思いが湧いているので、自身の青二才を承知で傲慢にもこの一文を書かせていただく。
皇后陛下とは如何なる御存在か、等と言う大層なことを私のような若造が語るのは不敬にも程のあることである。私よりも目上の方が「お前みたいな青二才が何を偉そうに」と𠮟責をしたとしても、私はそれを甘受するつもりでいる。
しかしながら、目上の者が目下の者に謙虚であれという時、それは彼自身が率先して自分よりも目上の者に礼を尽くしていることが前提である。自分が目上の者に例を尽くさずして目下の者を指導するような者は慙死しなければならない。これは当然の理である。
何故このような前置きを書くかと言えば、所謂「保守」を名乗る者の中に、皇后陛下や皇太后陛下に対してあまりにも不敬なことを言う者が散見されるからである。
凡そ皇后陛下や皇太后陛下よりもエライ臣民などは存在しないのであって、皇室制度の廃止を訴える左翼ならばともかく、苟もその左翼を日頃攻撃しているものが皇后陛下や皇太后陛下に不敬な言動をしようものならば、忽ち慙死の義務が発生すること、言うまでもない。
江戸時代の勤皇家である竹内式部は、皇后陛下について次の如く語られている。
「皇后に奉公し給ふも同じ事なり。皇后ハ 大君と並び給ふ御方にて、天地陰陽日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬ひ給ふべし。」
つまり、皇后陛下に対しては天皇陛下に対するのと同じように敬わなければならぬ。
天皇陛下と皇后陛下とは「天地陰陽日月」のような関係である。これは竹内式部の独自の説ではなく、聖武天皇の宣命にもあることである。
「天に日月在る如、地に山川有る如、並坐して有るべしと言ふ事は、汝等王臣等明けく見知れる所在り。」
この宣命をやや文体を崩して読み下すと、こう言うことである。
「天に月日が在る如く、地に山川が有る如く、並んで坐して有るべしという事は、汝ら王臣たちが明らかに見知る所である。」
そういうことで皇后陛下は特別の地位を持っておられる、その最大の特徴は、位階を超越しているという事である。
高い位階を授けようと思うならば、政治力によって強引にこれを叙位することはできる。岸田首相は安倍元首相に従一位の位階を授けた。岸田首相にとって安倍首相は正二位である原敬や渋沢栄一、乃木希典、犬養毅よりもエライという事である。
しかしながら、原敬や渋沢栄一、乃木希典、犬養毅らはなまじ位階などという者を持っているから安倍さんに超えられてしまうのである。皇后陛下や皇太后陛下はそもそも位階を持っていないのであるから、如何に高い位階を政治力で手に入れても、皇后陛下を超えることは出来ない。
神社の神様の位階も正一位が最高である。従って、皇后陛下や皇太后陛下は神社の神様よりも偉い方々なのである。
無論、左派の皆様が「今は国民主権の世である、皇后がエライ等とは思わない」と言うのであれば理解はできるが、苟も保守派の人間が一方で「天皇陛下万歳」と言いながら皇后陛下に不敬な言説を為したり、或いは、皇太后陛下に「上皇后」なる珍妙な称号を押し付けたりするのは、盛大な矛盾である。そのような者に保守を名乗る資格は無いのである。