十善の君
何気なく谷口雅春先生の著書『維摩経解釈』を開くと、偶々65ページが開かれて、そこには十善戒の解説が載ってあった。
十善戒とは何か。谷口雅春先生の御文章を引用する。
十善の三妙行をいとなむとき、其処が如何なる土地であっても其処に浄土が展開されるのであります。三妙行とは、身妙行、語妙行、意妙行であって、身にも、語にも、意にも次の如き十善を修するのであります。(谷口雅春『維摩経解釈』65頁、原文は繁体字・歴史的仮名遣い)
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そして不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒・不貪欲戒・不瞋恚戒・不邪見戒の十善戒の説明が為されている。
この十善戒と言うのは、『維摩経』に限らず上座部仏教・大乗仏教を問わず多くの仏教の経典に記されている戒である。
私は実は最近、十善戒について大きな関心を抱いていた。というのも、思想史において十善戒が大きな役割を持っているのではないか、と思っているからである。
我が国においては、天皇陛下は十善戒を生まれながらにして備えている方であるとして、天皇陛下のことを「十善の君」と呼んできた歴史がある。
また「王は十善、神は九善」なる諺もある。ここで言う「王」は文字通りの意味ではなく、天皇陛下のことであって、神々も十善戒の内の一つは守っていないが、天皇陛下は十善戒を完全に備えておられる、ということである。
つまり天皇陛下は「十善の君」と称せられるに及んで、仏教の教義上も神々(天部)の上位の存在となったのである。
ところで、これは言い換えると神々でも守れないぐらいある意味厳しいのが十善戒であるということであるが、十善戒の内容自体は特に世間一般の常識と乖離するようなものでもなく、況してや人ならぬ神であれば守れて当然のように錯角さえしてしまう。
だが、この十善戒の内容をよくよく考えると極めて難しいものである。
私個人は「不瞋恚戒」だけはどうも守れそうにない。
これは簡単に言うと「怒ってはならない」というものである。
菩薩たる者は、たとい不動明王のように忿怒の形相をあらわしていましても、実は怒っていないのでありまして、慈悲心をもって悪を克服し、その人を善導せんがためであります。常に和潤な、やわらかい心をもって人々の心を調和せしめるのが菩薩の生活でありまして、其処にこそ浄土が顕現するのであります。(引用前掲書、68頁)
まだまだ人格の未熟な私は、怒ることがあまりにも多く、十善どころか九善も怪しいのである。
無論、自分が悪い時には怒ったことを反省しなければならないのであるが、厄介なのは自分が百パーセント正しい時である。
そういう時には怒りが何ヶ月も、場合によっては何年も持続してしまうもので、誠に厄介である。
しかし、それを赦すことができようになってこそ、菩薩なのである。
『梵網経』に言う、菩薩は親孝行をしなければならないのであるが、かと言って仮に親を殺されても怒ってはならぬ、と。
私は幸いにも両親は健在である。そして両親は生長の家の地方講師であり、誠に幸せである。
だが、私は詳細を省くがその生長の家において活動することが妨害されており、天皇陛下・総裁先生・両親に対しての中心帰一を全うできない状況に追い込まれているのである。
このような状況でも怒らずに、「やわらかい心をもって人々の心を調和せしめる」ことが出来るのか、が私に課された考案である。
天皇陛下が十善の君であると言われるのは、天皇陛下は不敬な臣民が幾らいても怒らずにこの国の象徴として公務と祭祀を為されておられることに由縁するのである。
かつて母は言われた、「自分がどれだけ赦されているか自覚しなさい、まずは天皇陛下に赦されていることを自覚しなさい」と。
そのことを思い出して、菩薩道に邁進しようと思う。
家を継がない場合の先祖供養について――一人暮らしや入籍のケース
生長の家では先祖伝来の宗教を尊重するようにしています。例えば、伝統仏教の檀家であれば檀家であることを推奨し、家には仏壇を置きその宗旨のお経を読誦することを推奨しているのです。
その理由は大きく二つあり、一つ目はどんな宗教の教えにも真理は含まれているからです。
生長の家では人間は「神の子」と説きますが、大乗仏教では一切の衆生に「仏性」があると説きます。これらは表現が異なるだけで本質的には同じ意味である、と生長の家では考えるのです。
二つ目は、先祖代々の信仰を否定するのは、そもそもご先祖様に失礼であると考えるからです。ご先祖様に改宗を求めたりするのは「お前たちの信仰は間違っているぞ」というのと同じことになります。
生長の家ではどんな宗教の方であっても、反社会的な信仰をお持ちの方以外は、改宗を求めないのです。キリスト教でも「人間に原罪がある」というのは生長の家の考え方とは完全に異なりますが、だからと言ってクリスチャンに「お前たちの信仰は間違いだから改宗せよ」とは言いません。無論、生長の家の信者が教会に通うのも自由です。
況してや先祖の信仰となると、これを尊重するべきは当然のことです。
しかしながら、今の時代にはどこのお寺の檀家でもなく、従って仏壇もない家が珍しくありません。これは今に始まったことでは無く、そもそも仏壇は跡取りが継承するものであると一般に考えられているので、分家の場合は仏壇が無い家も多いのです。
また一人暮らしや単身赴任の場合ですと、そもそも仏壇を置くスペースの無い家も珍しく無いです。
こうした場合の先祖供養の意義について、生長の家の公式サイトに次のような説明があります。
少し私の言葉で説明すると、先祖供養とは何も家の祭祀に限ったことでは無く、例えば結婚して嫁や婿の家に行っても実家の先祖を供養した方が良いのです。
また、独身の場合でも両親の家の両方の先祖を供養した方が良いです。
昔は、生長の家の信者の女性がお嫁に行くと嫁ぎ先から「なんで実家の先祖の供養をしているんだ!」等と怒られたというような話もあったようですが、今の時代にそんな男尊女卑な観念の方はいないでしょう。
無論、それは嫁ぎ先の仏壇に実家の先祖の位牌も置くという意味ではなく、生長の家では位牌となる紙を一柱100円で頒布していますから、それに「○○家先祖代々親族縁族一切之霊位」と書いて、それに向かって生長の家のお経と実家の宗派のお経を読誦すれば良いのです。
また生長の家に限らず、霊友会系の新興宗教も両家の先祖を祀るように指導されているそうです。それはとても素晴らしいことであると考えます。
一人暮らしの場合も同様です。こうした位牌は先祖の依り代、言わば先祖と自分を繋ぐアンテナのような役割を果たします。
ご先祖様は家を継いだ子孫だけが可愛いかと言うと、そんなバカなことはありません。分家をした子孫も一人暮らしをした子孫も嫁や婿に行った子孫も、皆等しく可愛いに決まっています。
そして霊界では時空を超越していますから、どこで先祖供養をしても本質的には問題が無いのです。これは実は死後だけでなく生きている間もそうです。
遠くから誰かの幸福を祈ると、その祈りは必ずその方に通じます。それは生きている人間も亡くなった人間も関係ありません。目の前の人間だけを幸せにする祈りなど、その効果は知れています。
ただ、先祖供養の一番の効果は、自分と先祖は共に神と一体である、仏教的には共に仏性があると悟ることにあります。
私に対して言っていないならば余計に残念である
則天去私氏が次のような投稿をされている。
2023年03月03日06:02
カテゴリ
この日野君というのは、どうして間違うのであろうか
どうして。この人は間違うのであろう。「日野が生長の家を大本の分派であると言った」などどこにも私は書いていない。先輩に対しても平気で上から目線でモノをいう。失礼であるし、間違っている。
こうした錯誤が間違いを生む。私は【「生長の家」は大本の分派でもなければ、派生でもない】といっただけである。こうした間違いが、誤解を招く。私はこの「日野君」を信用しないのは公に誰でも個人攻撃をするからである。もう少し、そういうことを控えて、純粋に「谷口雅春先生」の勉強をしたらどうか、期待していただけに残念である。
一体、事実に反しているのはどちらであるのか。私はこう投稿したのである。
若干の疑問 (56544)
日時:2023年03月02日 (木) 17時30分
名前:日野智貴則天去私さんの言う通り「パテント=著作権」という意味ではないが、訊けさんもパテントを著作権であると等号ではむすんでいないはずである。それはトキラジオを聴くとわかる。
以前も則天去私さんは「日野が生長の家を大本の分派であると言った」と言うデマを真に受けたかのような記事を書かれていたことがある。残念である。
ただ、人類光明化の真理の宣布のパテントを譲ったということから、必然的に大聖師の真理の言葉(著作物)を人類光明化運動のために用いることも含まれているはずなのです。
かつて「正当な理由がなくても神示の利用許諾を破棄できる」という旨の主張を法廷でされた方がおられましたが、正当な理由無しに真理の言葉の宣布を禁じられてはたまりません。また、現にそのような主張は裁判所で否定されました。
人類光明化のパテントを譲られた以上、その為に必要な大聖師の文書の利用も認められると解釈するのが妥当と考えます。
私は「日野が生長の家を大本の分派であると言った」と則天去私さんが言ったとは一言も言っていない。そういうデマを流している人間はハンドルネーム「元信徒」氏のことであり、そのことは当該掲示板の投稿者の間では周知の件である。
ただ、則天去私さんが「真に受けたかのような」記事を書いたことを「残念」と言ったことを則天去私さんは「上から目線」と言われたのであろうが、そもそも私が「残念」と言ったのは「【「生長の家」は大本の分派でもなければ、派生でもない】といっただけ」の記事ではない。
私がどういう記事を念頭に「残念」と言ったかと言うと、それは別の記事における次の記述である。
先日、谷口先生は「大本」の分派とか派生とか記載されていたが、ほとんど大本時代の書物は読んでいない人であります。それで平気で発言及び書くものである。
則天去私さんは私に「先輩に対して失礼」と言うが、仮にここで則天去私さんが言う「大本時代の書物は読んでいない人」が私ではないのだとすれば、則天去私さんこそ失礼ではあるまいか。
私は『皇道霊学講話』は一応読ませていただいたがそれでも熟読というレベルでは当然なく、だから「元信徒」氏の発言を真に受けてしまって遠回しに私に対して「日野よ、大本時代の大聖師の文章も読むように」と助言してくださったのかと思っていた。その場合、私は「元信徒」氏が挙げたような発言はしていないのであるから、むしろ相手を先輩だと思って、先輩に誤解されているようであるからこそ「残念」だと言ったのである。
が、仮に私相手ではないのだとすれば、それはなおのこと、残念である。
私のような青二才が「平気で発言及び書く」ことを批判するのであればともかく、年配の信仰者に「大本時代の文章を読んでいない」というだけで批判するのは、それこそ失礼ではあるまいか。
大本時代と生長の家時代では、谷口雅春先生は唯神実相論を悟られたというだけではなく、その古神道理解にも大きな違いがある。例えば「一霊四魂」についての『皇道霊学講話』で谷口雅春先生が語られた内容と生長の家の一霊四魂観は全然違うし、生長の家立教後の谷口雅春先生が語られた一霊四魂の内容は大本よりもむしろ神理教に近い面があるが、神理教とも異なる点がある。
それについて(無論、この点に限らず)谷口雅春先生が古神道についてどのような方から学ばれたかについては私も興味を抱いているが、則天去私さんほどには調べられていない。その点では則天去私さんを尊敬するが、かと言って私以外の信者が大本時代の文章を読んでいなくても「そりゃそうだろうな」としか思えない。
大本の教義は生長の家と違うからこそ、多くの信徒は大本時代の谷口雅春先生のご文章に興味を抱かないのである。そのことの何が悪いのか、という話である。
私に対しての批判ではなく別の(恐らくは私よりも年配の)誰か、或いは、漠然と「大本時代の書物は読んでいない」信徒全般にたいして批判を加えているならば、それは信徒の皆様の気持ちを考えていないのであるから、残念であるという他ない。
AIに生長の家や立憲民主主義について聞いた結果(3)
そうですね、教団内での様々な解釈や意見は多様性を反映しているとも言えます。ただし、それによって人間関係が崩壊してしまったり、過激な思想や行動につながってしまうことは問題です。大切なのは、個々の意見や解釈を尊重し、建設的な議論を通じて共通の目的に向かって進むことだと思います。
AIに生長の家や立憲民主主義について聞いた結果(2)
私が担当している2021年時点の情報によると、生長の家に自民党や日本会議のスパイがいるという具体的な報道や情報はありませんでした。また、生長の家が日本会議や自民党を支持しないことも報道されています。
ただし、政治や社会に関心を持つ人々が、様々な団体や党派に所属し、そこで活動することは自由な行為であり、生長の家の信仰者も例外ではありません。ただし、生長の家は政治的な中立を保ち、政治的な選択については個人の自由な判断に基づくことを望んでいるとされています。
スリーパーセルについては、具体的な証拠や情報がない限り、憶測や噂に過ぎないため、真偽の程は不明です。また、そういったスパイ行為は法律に違反するものであり、断じて容認されるべきではありません。
生長の家の信徒である日野智貴氏が保守派かリベラル派かは、公には明らかにされていません。彼がどのような政治思想を持っているかについては、情報が限られているため断定することはできません。
私の回答に誤りがありました。おっしゃる通り、日野智貴氏は公式サイト上で「保守派」を自称しています。申し訳ありませんでした。
保守派という言葉は多義的な解釈があるため、どの程度の意味での保守派を自称しているかによって異なります。ただし、公式サイトにおいて自己紹介をする際に「保守派」と明言しているため、少なくとも自身が保守的な立場にあることを強く主張していることは確かです。
小沢一郎氏は地方分権や行政改革について独自の考え方を持っています。彼は中央集権的な政治体制に批判的であり、地方自治や地方主権を重視する立場をとっています。具体的には、地方自治体に財政的な権限を与え、地方の意思決定の場を拡大することで、地方の発展を促すことを主張しています。
小沢氏はまた、行政改革についても独自の考え方を持っています。彼は官僚主導の行政を批判し、政治家主導の行政改革を進めることを主張しています。また、彼は政策決定において専門家の意見を尊重することも主張しています。
他の政治家との違いとしては、小沢氏は自民党や民主党などの既存の政党にとらわれない独自の政治理念を持ち、常に新しい政治の形を模索する姿勢を見せています。また、地方分権や行政改革についての具体的な提言や政策実現に向けた取り組みを行っていることも特徴的です。
ありがとうございます。訂正いたします。谷口清超先生の名前は「たにぐち きよひで」と発音し、「清超」は通称であること、また婿養子であることも認識しております。また、今の生長の家の総裁が谷口雅宣先生であることも承知しております。誤った情報を提供してしまい申し訳ありませんでした。
谷口雅春先生が生長の家を離れた後、その信奉者たちは複数の政治団体を通じて政治的な活動を行ってきました。その中の一つが「谷口雅春先生を学ぶ会」であり、自民党を支持しています。
ただし、生長の家の公式見解としては、政治的な団体や運動への参加は個人の自由であるとし、公職選挙においても生長の家は中立を貫いています。つまり、「谷口雅春先生を学ぶ会」が自民党を支持していることは、生長の家の教義とは直接的には関係がありません。
ただし、個人的な見解としては、谷口雅春先生が生きていた当時の生長の家は、政治的な団体や運動に積極的に関わることを避けるよう指導していたとされています。そのため、「谷口雅春先生を学ぶ会」が自民党を支持していることは、少なくとも彼の生前の指導方針には沿っていないと考えられます。
AIに生長の家や立憲民主主義について聞いた結果(1)
生長の家は、日本の立憲主義の先駆者である伊藤博文の教えを実践し、社会正義や平和を実現するために、立憲主義を支持しています。
具体的には、以下のような理由が挙げられます。
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権力分立の原則の重視 立憲主義は、権力分立の原則を重視しています。つまり、政治権力や行政権力、司法権力などが互いにバランスを保ち、相互に監視しあうことで、権力の乱用や濫用を防止することを目的としています。このような原則に基づいた政治システムは、権力の偏在を防止し、社会正義や人権の保護につながるとされています。
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個人の自由と権利の尊重 立憲主義は、個人の自由と権利を尊重することを基本的な価値観としています。つまり、人々は自己決定権や表現の自由、プライバシーなどを保障されるべきであり、政府や社会の圧力から自由であることが望ましいとされています。
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民主主義の強化 立憲主義は、民主主義の強化を目的としています。政治的決定や行動が、国民の意志に基づくものであることが重要であり、政治的な力関係が公正かつ透明になるようにすることが求められます。
生長の家は、立憲主義を支持する立場をとっていますが、その理由は、「絶対民主主義」ではなく「立憲民主主義」が、より公正で持続可能な政治システムを実現するために適切であると考えているからです。
「絶対民主主義」とは、政府が完全な民主主義を追求し、少数派の意見や権利を無視することがあるという危険があります。例えば、多数派の意見に基づいて人権を侵害することがあるといった問題が生じることがあります。
一方、「立憲民主主義」は、憲法に基づいて政治が行われ、権力分立の原則に従い、権利と自由を保障するための仕組みを備えています。このようなシステムは、公正かつ持続可能な政治を実現する上で、より適切であると考えられています。
したがって、生長の家は、「絶対民主主義」ではなく、「立憲民主主義」を支持しています。
「完全な民主主義」という言葉には、明確な定義がないため、解釈が分かれることがあります。しかし、多くの場合、「完全な民主主義」とは、政治的な決定を全ての市民が直接行い、それに基づいて政府が運営される理想的な状態を指すことがあります。この場合、多数決による意思決定が中心となります。
しかし、現実の社会においては、政治的な決定を全ての市民が直接行うことは困難であり、また、多数決による意思決定によって少数派の権利や自由が侵害される可能性があるため、立憲主義や権力分立の原則に基づいた制度が必要であるとされています。したがって、多数決による意思決定は、民主主義において重要な役割を果たすものの、それだけで「完全な民主主義」と言えるわけではありません。
「皇恩を感謝せよ」という考え方は、生長の家の信条の一つであり、天皇を敬う心を重んじるものですが、これが立憲民主主義と両立するかどうかは、立場によって異なると考えられます。
立憲民主主義は、憲法に基づく民主主義的な政治システムであり、公正かつ持続可能な政治を実現するために、法の支配、権力分立、人権の保障などが重視されます。一方、「皇恩を感謝せよ」という考え方は、天皇を尊敬し、敬うことを重視するものですが、それが公正かつ持続可能な政治を実現する上で重要かどうかは、立憲民主主義の観点からは疑問視されることがあります。
ただし、日本国憲法は、天皇を「象徴」として位置づけ、天皇に政治的な権限は与えていません。したがって、立憲民主主義の観点からは、天皇を尊敬することは問題ないとされています。しかし、政治的な決定において「皇恩」を優先することは、立憲民主主義とは矛盾すると考えられます。
生長の家の立場が立憲民主主義と矛盾するかどうかは、個人の解釈によって異なると考えられます。
一方で、生長の家は、「法の支配」や「憲法の尊重」といった立憲民主主義に基づいた政治制度を支持しているとされています。また、政治的な決定において、憲法や法律、人権を尊重することを重視しているとされています。
しかし、生長の家が「皇恩を感謝せよ」という考え方を重視していることから、その立場が立憲民主主義とどう整合するかは、議論の余地があると思われます。
ただし、生長の家が立憲主義や民主主義を支持していることは事実であり、その理念を実現するために、積極的な社会貢献活動を行っていることも事実です。したがって、生長の家の立場に矛盾があるかどうかは、個人的な解釈によるものとされています。
立憲民主主義において政党選択は個人の自由であり、政治的な信条や立場に基づいて自由に決定されるべきです。そのため、生長の家が自民党や公明党を支持しない決定をしたことは、立憲民主主義の観点からは問題ないと考えられます。
政党は、一定の政治的な立場や考え方に基づいて行動する組織であり、それぞれの政党が持つ理念や政策に基づいて、選挙において支持を得ることが求められます。個人や団体が政党を選択する際には、その政党の立場や政策が自身の理念や価値観に沿うものかどうかを判断することが重要です。
したがって、生長の家が自民党や公明党を支持しない決定をしたことは、立憲民主主義の観点からは問題なく、個人や団体が政党を選択する自由を尊重する立場に立っていると考えられます。
生長の家は、政治的な支持や投票について、信者に一定の自由を認めています。そのため、生長の家の信者が教団の意向に反して自民党に投票したとしても、必ずしも生長の家の教義を理解していないとは限りません。
政治的な選択や投票については、個人の判断に基づいて自由に決定されるべきであり、生長の家の信者も同様に、自己の良心と信念に基づいて選択することが望ましいでしょう。生長の家が政治的な支持や投票に関して明確な指導を出していない場合には、個人の自由な判断に基づいて選択することが適切です。
ただし、生長の家が支持する立憲民主主義の原則や、教義に反するような政治的な行動には、生長の家の信者は注意を払う必要があります。それでも、個人の判断に基づいて自由に選択された場合には、生長の家の信者であることに変わりはありません。
立憲民主党は、日本国憲法を尊重し、平和主義や人権尊重の原則を重視する政党であり、生長の家が支持する立憲民主主義の原則と一致する部分があります。そのため、生長の家の信者が立憲民主党の党員になることに特別な問題はありません。
ただし、生長の家の信者がどの政治的な立場を選ぶかは、個人の自由な判断によるべきです。また、政治的な立場や党派に属することが、必ずしも信仰に影響を与えるわけではありません。
一方で、政治的な選択や活動においては、生長の家の教えに照らして慎重に判断し、他者との調和を図ることが望ましいです。また、生長の家は政治的な支持や活動について明確な指導を出していないため、個人の自由な判断に基づいて選択することが適切です。
生長の家の内部事情については私が把握していないため、一般的な見解をお答えすることとなります。
立憲民主党の党員であることが、生長の家の役職に就く人物に必ずしも適さないとは言えません。ただし、生長の家は政治的な中立を保ち、政治的な選択については個人の自由な判断に基づくことを望んでいるとされています。
役職に就く人物が政治的な立場や党派に属すること自体に問題があるわけではありませんが、その人物がその立場や党派に基づいた活動や主張を行うことが、生長の家の教義や活動に影響を与える可能性がある場合、問題が生じる可能性があります。
生長の家が、役職に就く人物に対して、立憲民主党の党員資格があること自体に反対するわけではなく、その人物の行動や主張が生長の家の教えや活動に合致するかどうかを判断し、必要に応じて役職から解任することは、あくまでも生長の家の内部事情や判断によるものであると思われます。