旧生長の家紫野道場が売却されたようです。
今後も政府の圧力で同様の事案は多発するでしょうが、私たちは光明思想を奉じて明るく信仰を守っていきましょう!
なお。生長の家龍野道場は信徒の力で守られています。
「退会したら、意見は通らなくなります」
それではお伺いします。
「トキ」さんは、ずっとこうすべき、こうしたらいいと言い続けてきましたが、それが通ったことが何かありますか。
教団に残っても、今の総裁専制体制下では、意見が通らない…。
私はそのことを痛感したからこそ、もはや教団内での体制変革は困難、外に出て“受け皿”づくりに賭けた方が、まだ道は開ける…。
そう確信したからこそ、退会したわけです。
「トキ」さんが、自ら、教団に残って、こういう意見を申し上げたらそれが通りました、だから残りましょう…。
そう言うのならばまだしも、そういう事実を挙げ得ずして、退会したら意見がとおらなくなりますと言っても、少しも説得力をもちはしません。
実際、「トキ」さんは、ここで、ずっと一貫して、批判ばかりしているではありませんか。
退会しなくとも、意見が通らない…。
それが現実なのではありませんか。
このトキという人が掲示板に書いていることを見ると
「今の教団は左翼である」
「総裁の政治方針は開祖と正反対である」
「菜食は偏食である」
というような、事実誤認乃至御教えへの無理解がうかがわれる言動であったり
「本部職員よりも地方職員の給料が低い!」
という愚痴レベルの言葉であったりする。
トキさんもまさか本気でそういう主張をしている訳ではないであろうから、教団内部で本気で意見を述べる気は、そもそもトキさんには無いということであろう。
しかし、トキさんは匿名掲示板という場で様々な意見を述べる方を擁護している。私については平気でデマを流す男ではあるが、デマを流ししてでも貶めたいほど私を嫌っている割には、私の投稿を削除したのは数回だけであるから、トキさんなりに「言論の自由を保障する」信念があるのであろう。
それはそれで素晴らしいことである。平気でデマを流すような人間は御教えの先達としては一ミリも尊敬できないが、掲示板管理人としての誠意と節度は尊敬に値する。
だが、教団内部で提案が通らないというのはデマも良いところだ。
今年の青少年見真会はコロナで縮小されたが、昨年、私は橋本百合子先生と一緒に教区青年委員会で次のような提案をした。
・『観世音菩薩讃歌』で浄心行を実修する
・開会の際には「生長の家高校生連盟の歌」を歌う
・堕胎に関する話を盛り込む
これらの提案はすべて承認された。
よく「今の教団では生高連の歌を歌えない」とか言う人がいるが、そんなバカなことはない。
歌わない人は、歌う気が無いだけのことである。
匿名掲示板のデマ情報を信じて
「生高連の歌を歌うと、本部に処分されるんじゃないか!」
という被害妄想を抱いている人間が、歌わないのである。
そういう被害妄想から卒業してこそ、真理の実践者と言える。
光明思想を学んでおきながら、一体、何を怖れているのか。教団の中で、堂々と生高連の歌を歌うべし。
既に概要はnoteに書いたが、学ぶ会が安定のデマを流している。
これは、人間性の問題である。学ぶ会は次のように述べている。
更にまた、「天皇国日本」に生きる私たちにとって、何よりも重大な関心事であった、平成から令和への御代替わり、光格天皇以来の約二百年ぶりのご譲位が、安寧の内に、恙(つつが)なく、滞りなく執り行われたことも、安倍首相であったからこそだと心から心から感謝せずにはいられません。この度の御代替わりの時の首相が、安倍首相であったことは、歴史に燦然と刻まれるに違いありません。
一体、どうしてこうも平然とデマを流せるのであろうか?その精神構造に生物学的な興味を抱いてしまう。
noteにも書いた通り、安倍政権は「譲国の儀」を行わせず、美智子陛下が「心が痛んだ」と公言し、年号事前公表を巡っては保守界隈で激しい議論が行われ、その他諸々、様々問題だらけの「退位の礼」なる「非礼」の行事を行った。
確かに、安倍総理は歴史に名を遺すであろう。それは、保守の仮面を被った稀代の朝敵として、だ。
彼らは良く「雅春先生は自民党を支持していた」と言うが、雅春先生は自民党政権であってもその不敬な行為については、繰り返し諫言を行っていた。
しかし、学ぶ会は諫言を行うどころか「恙なく」譲位が行われたというデマを平然と流す。そのような団体に大聖師の名前を使って欲しくはない。
次の一説に至っては、笑止千万である。
しかし、そういう中で、一筋の光明を見出すこともできました。
若き日、『生命の實相』に導かれた稲田朋美先生が、辞任表明後に安倍首相から直に伺ったというこの言葉。
「これから人事もあるし、国会もあるし、ここで余力を残して辞任するのが一番」
安倍首相は決してこれで終わりではないと、この言葉で確信することができました。
健康が快復すれば、安倍首相は今後も、引き続き、隠然たる存在感を示していかれるに違いありません。年齢だってまだ65歳です。今、渦中の菅官房長官にいたっては71歳なのです。まだまだこれからです。
今や、稲田議員は左翼であるとして自民党内からも稲田氏のグループから集団離脱した保守系議員がいたそうであるが、どうも学ぶ会はどうしてもこの人を信じたいらしい。
私は安倍政権が「反天皇」の左翼政権である、と言う見解である。
谷口雅春先生は、日中国交正常化をした田中角栄総理を「半分赤い」と言われていたのであるが、安倍政権は日中国交正常化どころか一帯一路を推進し、挙句の果てには「中国と協力してスーパーシティを!」と言い出すような、トンデモナイ親中政権でもあった。
それでも安倍政権を支持するのは自由だが、嘘をつくのはダメだろ。
『“新しい文明”を築こう』において、『聖光録』にのっていた「大日本神国観」と「宇宙浄化の祈り」が省略されている、として騒いでいる人がいる。
だが、省略されたのはこの二つだけではない。
省略された神想観は、
・蓮華日宝王地観
・観普賢菩薩行法
・自己礼拝の神想観
・神を愛する神想観
・随時随処神想観
・絶対者と一体になる神想観
・就寝前一切を許し感謝する祈り
・睡眠中に神の智慧を受ける祈り
・朝、目覚めたときの祈り
・朝、太陽に向かっての祈り
・竜宮・平和・普賢観
・大日本神国観
・伊勢神宮の神前に於ける神想観
・日本国実相顕現の祈り
・人類光明化運動推進のための祈り
・住吉大神宇宙浄化を祈る神想観
・遠隔思念の一形式
と、掲載されたものよりも省略されたものの方が、はるかに多いのである。
省略されたものの中には、確かに「国家主義的」と判断されそうなものもあるが、そうでない、無難なものもある。
これを見ると、今回の編纂では「問題があるから、載せない」と言う訳ではなく、逆である。「問題が無くても、載せない」つまり「載せるべき積極理由が無いと載せない」という、編集方針があったことが判る。
例えば、省略されていないものに「如意宝珠観」がある。これは龍宮観の代表的なものである。そして、それ以外の龍宮観は全て省略されている。
この様に「必要最小限度」の神想観しか載せないことになったのは、もっぱら編集上の都合ではないだろうか。
半分以上のページを谷口雅宣先生と谷口純子先生の文章に充てているのであるから、編集者としては断腸の思いで省略した神想観も多かったことと思う。だが、省略した神想観について「もう、実修するな」というつもりではないだろう。
編集者はそんなことを毛頭思わずに、ただ紙数とにらめっこしていただけではあるまいか。いくら何でも「和解の祈りをするな!」等と思いながら編集していたはずがないからである。(もしもそうであれば、「大調和の神示」を真っ先に省略していたことだろう。)
「口撃する自由」とやらを主張している某宗教法人の幹部が「破邪顕正」というHNで「谷口雅春先生に帰る」という掲示板で次のように投稿している。
谷口雅宣先生の、「宇宙浄化の祈り」の言葉の加筆について”
こう書いてあるところをみると、所謂、宇治の「改訂版」なるものを、「tapir」さんは、“背教総裁”の指導があってのことと見ているのでしょうか。
もし、本当にそうであるならば、今までの通例から言って、“背教総裁”は、全国に、「このように文言を改めて実修するように」と通知したはずです。
“ニューバージョン「宇宙浄化の祈り」”とか称して…。
そして、その「改訂版」を、この度の「中巻」に掲載したはずです。
大事なことは、どうして、これが「大日本神国観」と一緒に削除されたのか…。
ここなのです。
文言を訂正、加筆するぐらいでは済まない、大きな事情があったと見るべきなのです。
それは何でしょうか。
「tapir」さんには、釈迦に説法かと思うのですが、結局、その一番の理由は、「宇宙浄化の祈り」そのものが“住吉大神”のお働きの祈りに他ならないからです。
折角、神様を“住吉大神”から“造化の三神”に取り替えたというのに、「宇宙浄化の祈り」をそのまま残して“住吉大神出でまして…”と称えられたのでは首尾一貫しないことになる…。
だから、どうしても、それを排除したかった…。
“背教総裁”にしてみれば、どんな文言を加筆しようとも許されるものではない…。
その存在自体を消してしまわないといけないものだった…。
それが「宇宙浄化の祈り」ということなのです。
他の記事の内容も含めて要約すると、彼は次のように言っている。
①教団は「宇宙浄化の祈り」の実修を禁止している。(或いは、本部は否定的である)
②「吾が日の本と地球世界を」という改訂版は「宇治限定」のものである。
③谷口雅宣先生はその「改訂版」も含めて「存在自体を消してしま」おうとしている。
だが、これは全て彼の妄想である。私は「吾が日の本と地球世界を」という改訂版を、宇治ではなく兵庫教区で「本部の方針」として、確かに聞いた。
念の為に検索してみたが、やはり生長の家埼玉教科部の機関紙にも同じ文言の祈りが載っている。
当時の埼玉の教化部長は故・多湖周子先生である。多湖先生は総裁先生に中心帰一されていた方であったから、この内容は総裁先生の意向に沿うものであると考えて問題ない。
また、この記事によると改訂版宇宙浄化の祈りは楠本行孝先生も実修されていたようである。私も是非受けたかったものだ。
もう既に教団を離脱している破邪顕正氏が教団の通達のすべてを把握しているはずがない。自分の調査能力不足から勝手に妄想をして
「総裁は宇宙浄化の祈りを(改訂版を含めて)消そうとしている!」
というのは、言語道断な話である。
流石は「口撃する自由」なるものを言い出す宗教家は違う。
某宗教団体の副代表が、「谷口雅春先生に帰る」と称する匿名掲示板で次のような投稿をしたらしい。
批判する自由、口撃する自由は、何人にも保証されなければなりません。
これが宗教家の発言であろうか?
「批判」と「口撃」とは、全く別物である。
「口撃」とは、何か。デジタル大辞泉では次のようである。
[名](スル)《「攻撃」のもじり》弁論で他者を批判・非難すること。口先で攻撃すること。「対立候補を口汚く
口撃 する」
ただの「批判」では、ない。「批判」は必ずしも「攻撃」では、ないからだ。
同じくデジタル大辞泉では、次のように記されている。
[名](スル)
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判 する」「批判 力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判 を受ける」「政府を批判 する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること
これを見れば判るように、「批判」に「攻撃」の意味はない。「口撃の自由」とは、宗教家が口にするのはあまりにもナンセンスである。
このような人物が「万物調和」を説いた谷口雅春先生の名前を騙るとは、詐欺にも等しいことである。