生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

十善の君

 何気なく谷口雅春先生の著書『維摩経解釈』を開くと、偶々65ページが開かれて、そこには十善戒の解説が載ってあった。

 十善戒とは何か。谷口雅春先生の御文章を引用する。

 

十善の三妙行をいとなむとき、其処が如何なる土地であっても其処に浄土が展開されるのであります。三妙行とは、身妙行、語妙行、意妙行であって、身にも、語にも、意にも次の如き十善を修するのであります。(谷口雅春維摩経解釈』65頁、原文は繁体字歴史的仮名遣い)

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

維摩経解釈 [ 谷口 雅春 ]
価格:3,635円(税込、送料無料) (2023/11/2時点)


 

 

 そして不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒・不貪欲戒・不瞋恚戒・不邪見戒の十善戒の説明が為されている。

 この十善戒と言うのは、『維摩経』に限らず上座部仏教大乗仏教を問わず多くの仏教の経典に記されている戒である。

 私は実は最近、十善戒について大きな関心を抱いていた。というのも、思想史において十善戒が大きな役割を持っているのではないか、と思っているからである。

 我が国においては、天皇陛下は十善戒を生まれながらにして備えている方であるとして、天皇陛下のことを「十善の君」と呼んできた歴史がある。

 また「王は十善、神は九善」なる諺もある。ここで言う「王」は文字通りの意味ではなく、天皇陛下のことであって、神々も十善戒の内の一つは守っていないが、天皇陛下は十善戒を完全に備えておられる、ということである。

 つまり天皇陛下は「十善の君」と称せられるに及んで、仏教の教義上も神々(天部)の上位の存在となったのである。

 ところで、これは言い換えると神々でも守れないぐらいある意味厳しいのが十善戒であるということであるが、十善戒の内容自体は特に世間一般の常識と乖離するようなものでもなく、況してや人ならぬ神であれば守れて当然のように錯角さえしてしまう。

 だが、この十善戒の内容をよくよく考えると極めて難しいものである。

 私個人は「不瞋恚戒」だけはどうも守れそうにない。

 これは簡単に言うと「怒ってはならない」というものである。

 

 菩薩たる者は、たとい不動明王のように忿怒の形相をあらわしていましても、実は怒っていないのでありまして、慈悲心をもって悪を克服し、その人を善導せんがためであります。常に和潤な、やわらかい心をもって人々の心を調和せしめるのが菩薩の生活でありまして、其処にこそ浄土が顕現するのであります。(引用前掲書、68頁)

 

 まだまだ人格の未熟な私は、怒ることがあまりにも多く、十善どころか九善も怪しいのである。

 無論、自分が悪い時には怒ったことを反省しなければならないのであるが、厄介なのは自分が百パーセント正しい時である。

 そういう時には怒りが何ヶ月も、場合によっては何年も持続してしまうもので、誠に厄介である。

 しかし、それを赦すことができようになってこそ、菩薩なのである。

 『梵網経』に言う、菩薩は親孝行をしなければならないのであるが、かと言って仮に親を殺されても怒ってはならぬ、と。

 私は幸いにも両親は健在である。そして両親は生長の家の地方講師であり、誠に幸せである。

 だが、私は詳細を省くがその生長の家において活動することが妨害されており、天皇陛下・総裁先生・両親に対しての中心帰一を全うできない状況に追い込まれているのである。

 このような状況でも怒らずに、「やわらかい心をもって人々の心を調和せしめる」ことが出来るのか、が私に課された考案である。

 天皇陛下が十善の君であると言われるのは、天皇陛下は不敬な臣民が幾らいても怒らずにこの国の象徴として公務と祭祀を為されておられることに由縁するのである。

 かつて母は言われた、「自分がどれだけ赦されているか自覚しなさい、まずは天皇陛下に赦されていることを自覚しなさい」と。

 そのことを思い出して、菩薩道に邁進しようと思う。