生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

私に対して言っていないならば余計に残念である

 則天去私氏が次のような投稿をされている。

2023年03月03日06:02
カテゴリ
この日野君というのは、どうして間違うのであろうか
どうして。この人は間違うのであろう。

「日野が生長の家を大本の分派であると言った」などどこにも私は書いていない。先輩に対しても平気で上から目線でモノをいう。失礼であるし、間違っている。

こうした錯誤が間違いを生む。私は【「生長の家」は大本の分派でもなければ、派生でもない】といっただけである。こうした間違いが、誤解を招く。私はこの「日野君」を信用しないのは公に誰でも個人攻撃をするからである。もう少し、そういうことを控えて、純粋に「谷口雅春先生」の勉強をしたらどうか、期待していただけに残念である。

 一体、事実に反しているのはどちらであるのか。私はこう投稿したのである。

若干の疑問 (56544)
日時:2023年03月02日 (木) 17時30分
名前:日野智貴

 則天去私さんの言う通り「パテント=著作権」という意味ではないが、訊けさんもパテントを著作権であると等号ではむすんでいないはずである。それはトキラジオを聴くとわかる。
 以前も則天去私さんは「日野が生長の家を大本の分派であると言った」と言うデマを真に受けたかのような記事を書かれていたことがある。残念である
 ただ、人類光明化の真理の宣布のパテントを譲ったということから、必然的に大聖師の真理の言葉(著作物)を人類光明化運動のために用いることも含まれているはずなのです。
 かつて「正当な理由がなくても神示の利用許諾を破棄できる」という旨の主張を法廷でされた方がおられましたが、正当な理由無しに真理の言葉の宣布を禁じられてはたまりません。また、現にそのような主張は裁判所で否定されました。
 人類光明化のパテントを譲られた以上、その為に必要な大聖師の文書の利用も認められると解釈するのが妥当と考えます。

 私は「日野が生長の家を大本の分派であると言った」と則天去私さんが言ったとは一言も言っていない。そういうデマを流している人間はハンドルネーム「元信徒」氏のことであり、そのことは当該掲示板の投稿者の間では周知の件である。

 ただ、則天去私さんが「真に受けたかのような」記事を書いたことを「残念」と言ったことを則天去私さんは「上から目線」と言われたのであろうが、そもそも私が「残念」と言ったのは「【「生長の家」は大本の分派でもなければ、派生でもない】といっただけ」の記事ではない

  私がどういう記事を念頭に「残念」と言ったかと言うと、それは別の記事における次の記述である。

先日、谷口先生は「大本」の分派とか派生とか記載されていたが、ほとんど大本時代の書物は読んでいない人であります。それで平気で発言及び書くものである。

 則天去私さんは私に「先輩に対して失礼」と言うが、仮にここで則天去私さんが言う「大本時代の書物は読んでいない人」が私ではないのだとすれば、則天去私さんこそ失礼ではあるまいか。

 私は『皇道霊学講話』は一応読ませていただいたがそれでも熟読というレベルでは当然なく、だから「元信徒」氏の発言を真に受けてしまって遠回しに私に対して「日野よ、大本時代の大聖師の文章も読むように」と助言してくださったのかと思っていた。その場合、私は「元信徒」氏が挙げたような発言はしていないのであるから、むしろ相手を先輩だと思って、先輩に誤解されているようであるからこそ「残念」だと言ったのである。

 が、仮に私相手ではないのだとすれば、それはなおのこと、残念である。

 私のような青二才が「平気で発言及び書く」ことを批判するのであればともかく、年配の信仰者に「大本時代の文章を読んでいない」というだけで批判するのは、それこそ失礼ではあるまいか。

 大本時代と生長の家時代では、谷口雅春先生は唯神実相論を悟られたというだけではなく、その古神道理解にも大きな違いがある。例えば「一霊四魂」についての『皇道霊学講話』で谷口雅春先生が語られた内容と生長の家の一霊四魂観は全然違うし、生長の家立教後の谷口雅春先生が語られた一霊四魂の内容は大本よりもむしろ神理教に近い面があるが、神理教とも異なる点がある。

 それについて(無論、この点に限らず)谷口雅春先生が古神道についてどのような方から学ばれたかについては私も興味を抱いているが、則天去私さんほどには調べられていない。その点では則天去私さんを尊敬するが、かと言って私以外の信者が大本時代の文章を読んでいなくても「そりゃそうだろうな」としか思えない。

 大本の教義は生長の家と違うからこそ、多くの信徒は大本時代の谷口雅春先生のご文章に興味を抱かないのである。そのことの何が悪いのか、という話である。

 私に対しての批判ではなく別の(恐らくは私よりも年配の)誰か、或いは、漠然と「大本時代の書物は読んでいない」信徒全般にたいして批判を加えているならば、それは信徒の皆様の気持ちを考えていないのであるから、残念であるという他ない。