これには驚くほかはない
則天去私氏のブログを読んで驚いた。
私は現在の「生長の家社会事業団」に本当に腹が立っています。数百人を結果的に私達を騙してしまったということです。それは『生長の家教義研修講座』で講師になりたい人は挙手して下さいと手を挙げ、今後に活動を期待していますので、講師バッチを購入し、名刺を作成させて、そのまま音沙汰がない。
私も彼の名刺を受け取っている。だから社会事業団講師の彼がどうして阪田成一氏の側に立っているのか、疑問に思っていたが、事情が判った。
則天去私氏はブログでは激しいことを書かれているが、実際にお会いするとブログの口調からは想像できないほどお優しい方で、総裁先生のこともブログでは激しく非難されているが、実際には学ぶ会に(教団にも)いるような、口を開けば総裁の悪口を言うような方ではない。
社会事業団の講師規定にはこうある。
2 生長の家講師は、国法並びに公益財団法人生長の家社会事業団講師規程(末尾の誓約書を含む。)及び当公益法人「生長の家講師委員会」の指示等を遵守しなければならない。
名称を「生長の家講師」としているのはいただけないが、それよりも、この規約を持つと講師に対して何の「音沙汰」もないと言うのは不審である。
「指示に従え!」と言っている以上、「指示」をしないとオカシイのに、音沙汰なしであったという。一体、どういうことか。「音沙汰がない」の状態でどう「指示に従え」というのか。
トキ掲示板においては「よく読むと」氏がこう述べている。
何を何処でする講師かも確かめもせず、研修会を受講しただけで任命される、講師資格を得ようとした即天去私さんの迂闊さ、また事業団がなんの目的で講師を募るための教修会を開催し、其の講師を阪田氏に依頼してきたのか、見通せなかった智慧のなさ、これらが相まっての今の現実であろうと考える次第。
公益財団法人生長の家社会事業団講師規程がありますのよく読んで判断した方がよいのではないでしょうか。/本音の時代さん
正論ですね、詐欺論に乗っかるのはいただけない。
無論、教団の言い分には十年近くも耳を貸さず、社会事業団の話を鵜呑みにしていた人が「今さら」のように被害者面することに関しては、私も過去に非難している。
snitennoukokunippon.hatenadiary.com
この記事についても「勝手に引用をするな!」という、怖ろしいイチャモンが来たのを覚えている。
が、則天去私氏はそのようなイチャモンを言う方ではないし、被害者面をしているわけではない。講師規定に「指示に従え」とあるのに音沙汰が無かったら「話が違う」と思うのは当然のことだろう。
ところで、同じスレッドで本音の時代さんが興味深い投稿をされている。
『生長の家教義』研修講座に参加した経験から (54668)
日時:2022年12月03日 (土) 10時51分
名前:本音の時代私の場合は、まさに『生長の家教義』を学びなおしのため参加しました。この中で、講師申請の話があり、講師希望者も数人いたと記憶しています。資料を見ると、〇生長の家講師申請・履歴書 〇講師規定 〇誓約書 〇名刺と徽章の申し込みチラシと振り込み用紙 が渡されたものと思います。
参考資料
http://www.seichonoie-sj.jp/img/organ_8.pdf私は札幌での研修でした。これを見ると講師希望者は15名でしょうか。
興味深いのは、彼が貼った「参考資料」である「躍進する生長の家社会事業団 夏号(No.8)」の次の一節である。
総裁の実相を祈って正していくというより、信仰の喜びの輪を広げることをもって、総裁、並びに教団のまちがいに対して異議申立をしていく。
これだけ読むと「総裁の実相を祈ることよりも、総裁並びに教団に異議申し立てをしていく方が、大事だ!」と言う意味に解釈できる。
調べるともっと詳しい文章がインターネット上にHN「破邪顕正」氏によって掲載されていた。彼は生長の家社会事業団の役員では無いはずだが、別団体の代表でありながらわざわざ社会事業団の機関紙の編集もされているようだ(そうでないとここまでフレーズの同じ文章が掲載されることはあり得ない)。
《質問》総裁先生の実相を祈って、正していくということはできませんか? (9761)
日時:2018年07月13日 (金) 18時54分
名前:破邪顕正
表題のようなご質問を受けることがまま、あります。こういうご質問を受けてまず感じるのは、この「正す」という意味合いなのですね。
心の奥底に、今の総裁はオカシイという思いがあるからこそ、何とか「正していく」ということを考えないといけないのではないかという思いが吹き上がるのだろうと思うのです。
総裁はオカシイ。
そういう思いを持ちつつ、実相を祈るというのは、果たして、どうなのでしょうね。
谷口雅春先生も『女の浄土』の中でこうお書きになっています。
《〝相手を良くしよう〟と思うのは逆観念であり、逆作用になる》(37頁)
問題は、それより、総裁の〝今の教え〟が素晴らしいと思う信徒がいることなのです。
そういう信徒によって教団が支えられている以上、私に言わせれば、それはもはやどうしようもない現実として受け取るべきであると思うのです。
総裁の考え方に従って教団が進んでいく以上は、それはもはや止めようがない、それはそれで致し方ないことと受け入れるべきであると思うのです。
だからこそ、私たちは、生長の家現教団を脱退したわけです。
総裁の教えは尊師の教えとは明らかに違う、根本的に違う、相容れない教えである。
そこまで違ってしまっているのに、そこにいることは信仰者として許されない。
そう判断したからこそ脱退したわけです。
そして、尊師の教えを歪めず、過たず、純粋に後世に伝え遺すという使命に燃えて「谷口雅春先生を学ぶ会」に集っているわけです。
尊師の教えを学ぶことがどれだけ魂の悦びとなるか。
その喜びの輪を如何にして広げていくか。
そこにしか、私たちの関心はもはやないのです。
なるほど、私たちは、その一方で、総裁の言動に対して、いろいろと批判を呈したりはしています。
しかしそれは、何よりも、総裁のそれが尊師の教えとは如何に違っているか。
それを明らめるためにこそやっていることなのです。
それでなければ、なぜ、私たちが教団を脱退したのか、それが説明しえませんからね。
敢えて、表題にある「正す」ということに拘るならば、私たちは、総裁の実相を祈って正していくというよりかは、私たちの信仰の喜びの輪を広げることをもって、総裁、並びに教団に対して異議申立をしていく。
「谷口雅春先生を学ぶ会」が更に更に大きくなっていけば、当然、それは総裁、並びに教団にとって大きな脅威となるでしょうし(現に、そうなっているからこそ、私どもの講演会に急遽、行事をぶっつけて、しかもそこに様々な役を申しつけて講演会に参加できないように、信徒を縛っているわけですが)、教団の中に、この路線でいいのかという反発、抗議の声を上げる、その後押しにもなるのではないかと思うのです。
私たちは、脱会して、外からの刺激を与える。
それに触発されて、内から、教団を正そうといううねりが生じるやもしれない。
まあ、それは今の段階では淡い期待にしか過ぎませんが、しかし、信徒がこれまで以上に激減し、教団経営が厳しいものとなれば、案外、そういううねりが起きないとも限らない。
そういうことで、私たちは、尊師の教えを広げること、そのための真理講演会、光明講演会をどんどん開催し、支部・拠点を陸続と生み出していくことに邁進してまいりたいと思っている次第です。
その方が、本来の「生長の家」を取り戻す上で、より効果的で実際的であると思うものであります。
色々と書いてあるが、総裁先生の実相を見る気もないし、自分たちで教団を良くする気もない、と解釈できる。
そもそも今の教団が教義を改変しているというのは学ぶ会によるデマであるが、それはともかくとして。
そんなに教団が嫌いな割には、講師の数は圧倒に教団の方が多いのに、自分たちの講師へは音沙汰なしとは、驚くほか無い。一体、何に向かって「邁進」しているのだろうか?