生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

阪田成一氏の裁判における「部分社会の法理」適用に関する社会事業団の反論について

 生長の家の神示を阪田成一氏が自身の個人的な通信に引用したことが著作権侵害であるとしてホンリュウ派団体「公益財団法人生長の家社会事業団」(以下、社会事業団)が提訴し敗訴した事件(令和4(ワ)5740著作権等に基づく差止等請求事件)で、実質的に“全面勝訴”した阪田成一氏はそもそもこの裁判には「部分社会の法理」が適用されると主張していたが、これについては判決で却下されていた。

 しかしながら、「部分社会の法理」を適用せずとも阪田成一氏が勝訴したことは事実であるものの、この「部分社会の法理」に関する阪田成一氏及び社会事業団並びに令和4年12月19日東京地方裁判所判決の見解を分析することは今後多くの生長の家信徒にとって参考になることであるため、以下分析させていただきたい。

 

『光明の音信』第9号事件の概要

 令和4(ワ)5740著作権等に基づく差止等請求事件(以下、『光明の音信』第9号事件)は、生長の家の元本部講師である阪田成一氏が発行している『光明の音信』第9号に社会事業団の許可を得ずに「声字即実相の神示」が引用されたことを「著作権侵害」であるとし、神示の著作権を有する社会事業団が阪田成一氏を提訴した事件である。

 これは正統な生長の家の信徒にとって三つの意味で注目するべき裁判であった。

 第一に、これはホンリュウ派の団体である社会事業団を原告とし、同じく従来ホンリュウ派の理論的指導者の一つと目されていた阪田成一氏を被告としている、即ち、原告と被告の双方がホンリュウ派であると言う、極めて珍しい構図であったという点である。

 社会事業団が正統な生長の家と対立し、自ら「生長の家本流運動」なるものを自称するホンリュウ派の団体であることは言うまでもないが、阪田成一氏自身も谷口雅宣先生が生長の家の法灯継承者であることを否定する内容の論文を安東巌氏らが発行する『真理に生きる』に寄稿し、その論文がホンリュウ派の論者によって利用されるなど、少なくともホンリュウ派は阪田成一氏の論文等を自身の主張の理論的支柱の一つとしていたことは紛れもない事実である。

 にも拘らず、阪田成一氏をホンリュウ派の社会事業団が訴えたことについては、多くの正統な生長の家の信者からすると驚きを隠せなかった。

 第二に、神示の引用の是非が争点となっていたことである。住吉大神が大聖師谷口雅春先生に下された神示は、ホンリュウ派の団体である社会事業団が著作権を有しているため、仮にその引用を社会事業団の許可なく行うと(ホンリュウ派と友好な関係にあったはずの阪田成一氏であっても)訴えられるのであれば、ホンリュウ派と対立している正統な生長の家の信者はいつ訴えられるか、判らなくなってしまう。

 第三に、この裁判において後述の通り阪田成一氏が「部分社会の法理」を主張したことである。

 これは第一と第二の点に比してあまり注目されているとは言えないが、阪田成一氏はこの裁判を「同一宗教団体内の教義に関わる紛争」と見做しており、状況からして正統な生長の家の教団から社会事業団を含むホンリュウ派の諸団体、さらには阪田成一氏らどの団体にも所属していない人間をも「同一宗教」の信者であるという認識を示していると解釈できるのである。

 このことは、阪田成一氏が実はホンリュウ派の人間と大きく見解を異にする部分であると考えられるので、ここに考察させていただきたい。

部分社会の法理を巡る両者の主張

 判決文より阪田成一氏と社会事業団による部分社会に関する主張を引用する。

 まず、阪田成一氏の主張は次の通りである。

 

 本件では、神示という宗教上の教義の位置付けが問題となっており、同一宗教団体内の教義に関わる紛争であるから、宗教団体という部分社会内部の争いとして、司法審査になじまないものであり、訴えの却下は免れない。

 これに対して社会事業団の反論は次の通りである。

 

 原告事業団は公益財団法人であって宗教法人ではないし、原告光明思想社は出版業を営む株式会社である上、被告は原告らいずれの構成員でもないから、宗教団体内部の争いであるという被告の主張は前提を欠く。また、本件は教義の位置付けが問題となっている事案ではなく、著作権(複製権及び出版権)の侵害が問題となっている事案であるから、司法審査の対象となる。

 

 それぞれの主張内容を纏めてみよう。まず、阪田成一氏の主張のポイントは次の三点である。

 

  1. 本件は神示という宗教上の教義の位置付けが問題となっている。
  2. 阪田成一氏と社会事業団は同一の「生長の家」という宗教団体(部分社会)に属している。
  3. 生長の家」という宗教団体の教義に関わる紛争は部分社会内部の争いである。

 

一方、社会事業団の反論のポイントは次の三点である。

 

  1. 本件は教義の位置付けが問題となっている事案ではなく、著作権の侵害が問題となっている。
  2. 社会事業団はそもそも宗教法人ではなく公益財団法人である。
  3. 阪田成一氏は社会事業団に属している訳でもないから部分社会の法理が適用されると言うのは前提を欠く。

 

 ここから明らかになるのは、阪田成一氏は生長の家という「宗教団体」を「宗教法人生長の家」よりも広い、ホンリュウ派に属する財団法人や株式会社、さらには如何なる組織にも属していない自分自身をも包括する、大きな「部分社会」であると考えている、ということである。

東京地裁の判断

 これについて東京地裁は②と③の争点には言及せず、専らそれらの前提となる①の争点について判決を下した。次の通りである。

 

 そこで検討するに、被告の主張は、本件訴訟が裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に該当しない趣旨をいうものと解されるところ、本件訴訟は、後記4のとおり、著作権に基づく請求の当否を決定するために判断することが必要な前提問題が、宗教上の教義、信仰の内容に深く関わるものとはいえず、その内容に立ち入ることなくその問題の結論を導き得るものと認められる(最高裁昭和51年(オ)第749号同56年4月7日第三小法廷判決・民集35巻3号443頁、最高裁昭和61年(オ)第943号平成元年9月8日第二小法廷判決・民集43巻8号889頁各参照)。

 そうすると、本件訴訟は、法令の適用による終局的解決に適するものとして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に当たると解するのが相当である。

 

 これについては、阪田成一氏の部分社会の法理適用を否定したという解釈も可能ではあるが、実際には「宗教上の教義、信仰の内容に深く関わるものとはいえず、その内容に立ち入ることなくその問題の結論を導き得る」というところが重要なポイントであろう。

 即ち、生長の家の教義について「その内容に立ち入ることなく」社会事業団の敗訴が決まった、ということである。

 というのも、社会事業団は阪田成一氏による神示の引用が「正当な引用ではない」として訴訟を起こしたわけであるが、これについて東京地裁は「公正な慣行」該当性と「目的上正当な範囲内」該当性の二つの観点から阪田成一氏による引用が正当であるとし、「被告が本件出版物に本件著作物を掲載した行為は、著作権法32条1項の規定する引用に該当するものと認めるのが相当である」から「その余の点について判断するまでもなく、原告らの請求は、いずれも理由がない」「原告らの請求はいずれも理由がないから、これらをいずれも棄却する」としたのである。

 そして、そうした判断において生長の家の教義が如何なるものであるかは関係しなかったのであるから、「法令の適用による終局的解決に適するもの」とした東京地裁の判断は妥当であったと言える。

 しかしながら、そのため部分社会の法理に関する阪田成一氏と社会事業団の間の認識の違いは放置されたままとなった、とも言える。

「宗教団体」と「部分社会」

 宗教団体に部分社会の法理が適用されることについては、判例が存在する(平成12(ネ)1490平成13年9月21日大阪高等裁判所判決)。

 

このような社会 ないし団体は「部分社会」と呼ばれることがあるが,その中には,政党,労働組合,宗教団体,学校,地方議会,公益法人等各種各様の団体が存在しており,それぞれ存在理由ないし性格を異にするものであるから,一律に「部分社会」であることをもって司法権が及ばないと解するのは適切でなく,その団体の存在理由ないし性格に即して司法権の及ぶ限界を論ずるべきである。

 

 

 それではここでいう「宗教団体」の定義は何か、ということが阪田成一氏の主張の当否を判断するものとなる。

 社会事業団は「原告事業団は公益財団法人であって宗教法人ではないし、原告光明思想社は出版業を営む株式会社である上、被告は原告らいずれの構成員でもないから、宗教団体内部の争いであるという被告の主張は前提を欠く」とするが、それは阪田成一氏が自分たちと同じ法人を構成していないから「宗教団体内部」の関係とは言えない、ということであろう。

 しかしながら、阪田成一氏が「宗教団体」と言う時、それは「宗教法人」又は「宗教活動をしている法人」という意味で用いていたのであろうか?

 そもそも財団法人の構成員という概念も一般的ではない。社団の社員に該当するものは、財団法人では評議員、株式会社では株主であって、阪田成一氏も自身がそれに該当しないことは十分承知のはずであり、まさか自分が「原告らいずれの構成員」であるから「部分社会の法理」を適用せよ、と言った訳では無いはずである。

 そこで宗教団体の定義を『宗教法人法』に基づいて引用すると、こうなる。

 

第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。

一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体

二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体

 

 

 もっとも民事訴訟においては法律の文言はしばしば柔軟に解釈されるし、とくに宗教に関する訴訟においてはその傾向が強いが、この法律を参考にすると阪田成一氏は恐らく次のような意味で「部分社会」たる「宗教団体」だという表現を用いたのではあるまいか。

 

  • 宗教の教義を弘めるという目標を共有している。
  • 同じ宗教の儀式や行事を行っている。
  • 同様の施設に置いて礼拝を行っている。

 

 つまり、阪田成一氏が自分と社会事業団の間に次のような共通点があったと解釈していたのだとすれば、同じ「部分社会」の一員であると主張したのも納得できる。

 

  • 人類光明化運動を共に行う同志である
  • 神想観等の行法も行う仲間であるのみならず共に行事を行ったこともある仲間である
  • 教団の礼拝施設(或いは、日本橋道場等のホンリュウ派の礼拝施設)はその法人の構成員だけでなく自分や社会事業団を含む全ての生長の家信徒のために開放されているはずである

 

 そうであるとするならば、共に「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する」仲間であって、しかも共有の「礼拝の施設を備え」ている訳であるから、一つの宗教団体との要件を備えているし、別々の法人に分裂していたとしても人類光明化運動の同志であるという以上は一つの「部分社会」の構成員のはずである、という解釈が可能となる。

ホンリュウ派と阪田成一氏の「分派」観

 前節の内容は私の推測に過ぎないが、裁判の争点にはなっていないものの、ホンリュウ派による阪田成一氏への批判ではこれと関連する論点のものが見られる。

 それが「分派」論争とも言うべきものである。ホンリュウ派の破邪顕正氏(ホンリュウ派団体の幹部と目される)は、阪田成一氏が『光明の音信』第1号にホンリュウ派を「分派」と表現したことをこう非難している。

 

ところが、「阪田氏」は、『光明の音信』を発刊するに当たり、その第1号において、「谷口雅春先生を学ぶ会」と「ときみつる會」が宗教法人となったことを挙げて、こう難じたわけです。

〈とうとう『生長の家』も、〝分派〟が出来てしまったのかと、なんともやる瀬無い気持ちと尊師谷口雅春先生、輝子先生に申し訳なく断腸の思いで一杯になりました〉

ここで、重要なのは、「阪田氏」は、「谷口雅春先生を学ぶ会」だけではなくて「ときみつる會」も同列に批判していることです。

ご存じのように、谷口恵美子先生は、「ときみつる會」を主宰されている宮澤潔先生のところに身を寄せておられるわけです。

その「ときみつる會」に対して、「阪田氏」は、〝尊師谷口雅春先生、輝子先生に申し訳なく断腸の思いで一杯になりました〟と書いたわけです。

だったら、そういう「ときみつる會」に身をよせられた谷口恵美子先生の行動もまた好くなかったということになりはしませんか。

それより何より「阪田氏」は〝分派〟が好くないというのであれば、だったら、どうしたら好かったのか、それをきちんと言うべきであります。

結局、「阪田氏」もまた、そのまま教団に残り続けるべきだったと言うしかないのだろうと思うのです…。

〝分派〟批判の、それが論理的帰結だからです。

破邪顕正「「阪田氏」はかくも厳しく〝分派〟批判をした以上、『誰でもできる「石上の行」』への論評を書くべきではありませんか。」https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=3428

 

 

 ここで破邪顕正氏が「分派〟批判の論理的帰結」が「そのまま教団に残り続けるべき」だとしていることは、重要なポイントである。

 阪田成一氏が社会事業団の構成員でないにもかかわらず自身と社会事業団を同じ「部分社会」の一員として裁判で主張したのに対し、破邪顕正氏は「分派を作るのに反対するならば教団に所属せよ」と主張していることになるからである。

 いわば、阪田成一氏が「部分社会の法理」を主張しているのに対して、破邪顕正氏らホンリュウ派は「別社会の教理(?)」とも言うべき主張をしているようである。

 分派を批判するならば「そのまま教団に残り続けるべき」だという破邪顕正氏の主張や社会事業団の「被告は原告らいずれの構成員でもないから、宗教団体内部の争い」では無いという主張からは、同じ組織の構成員ではない人間は「内部」ではなく「外部」である、という認識が透けて見える。

 なお、もしも阪田成一氏の主張が私の想定通り組織の所属に関係なく同じ宗教団体の一員として認められるべきであるというものだとするならば、それは教団とホンリュウ派の共存を可能にするものであると言えるが、これに関する見解は別に述べることとしたい。