生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

家族計画の是非は「女性が喜んでその計画に同意」しているかで判断されるべき

 今の時代では高校の保健科の教科書でも家族計画を立てることが推奨されており、避妊法を弘めることが一般に良い事であると認識されている。

 アセクシャルである私にとっては、避妊をしてまで性行為に拘る人の気持ちはいまいち理解できないが、私の信仰する生長の家においては避妊を行うことは否定していないどころか、むしろある面では推奨されている。

 「ある面」と言うのは、女性が「喜んで」立てた家族計画に基づき避妊する場合であって、このことを生長の家初代総裁谷口雅春先生はこう述べられている。

 

 それでは産児調節は全然まちがっているのであるか、人工流産は無論のこと避妊による計画妊娠とか家族設計というようなことも悪いのであるかという質問も、諸方から来ているのでありますが、堕胎と避妊とは罪の軽重において非常に相違します。家庭において家族設計の為の計画妊娠をするということは、それは妻たる女性が喜んでその計画に同意する場合には、それは妻の人権の不尊重ということにはならないと思います。

谷口雅春『心と食物と人相と』114~115頁)

 

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 但し、ここでは女性が「喜んで」その計画に賛同していることが絶対条件である。「嫌々」「止むを得ず」の「同意」というのは、女性が「喜んで」いない時点で、その人権を尊重しているとは言い難いのである。

 例えば、政府が避妊を推奨したり逆に少子化対策を名目に出産を推奨したりすることについては、谷口雅春先生は女性に対する人権侵害であると考えておられた。

 

戦争でも起こって人的資源を必要とするときには「生めよ、殖えよ」と言っておきながら、機械が発達して労働力があまり要らなくなると、「生むな、殖やすな」と言うのでは、人間を機械力の代用のように考えている訳であり、特に、女性を「時代の必要に応じて増産したり、操短したりする子供を生む機械」のように考えることは、女性の人権を無視したものであろう。

谷口雅春『霊供養入門』196頁)

www.ssfk.or.jp

 


 

 そのように考えると、家族計画ですら女性の意思を十分に尊重しなければならないのに、所謂プロチョイスが「女性の自己決定権」として中絶を擁護しておきながら、その一部が「育てられないなら産むな」等と言う“半強制的堕胎”論を主張しているのは、お腹の中の赤ちゃんの生命を軽視している上に、女性の人権も無視しているものであって、言語道断の主張なのである。しかしながら、そのような主張に賛同している助産師もいたりするので、如何にこの国に生命軽視・人権軽視の思想が蔓延しているのであるかが判るのである。

 また、かつて緊急避妊薬を巡る議論の際にプロチョイスの政治家(彼は医師でもある)が「男性による緊急避妊薬の悪用」を危惧するツイートをしていたが、これは彼氏が彼女に対して緊急避妊薬を強制的に飲ませるようなことを念頭に置いているらしいのであるが、今の日本では彼氏が彼女に避妊を強要するケースよりも中絶を強要するケースの方が多いのである。女性側が子供を産みたいと願っていても男性側が中絶を強要していて、それで一般社団法人いのちを守る親の会へ相談にきて妊婦さんと赤ちゃんとが救われた、という話は山ほどある。

 こうした問題について谷口雅春先生はこう述べられている。

 

 単に数量的な人口問題や、食糧問題だけの理由のために、女性の天性を無視した堕胎や優生手術を公許するということは、横暴な男性をしてますます女性を“性の快楽のための道具”としてのみ扱わしめるに至り、男性の“性快楽の道具”としての役目さえつとめたら、その“母性”は保護しないでもよいというような立法になっているのであります。この点からいえば、女性の人権尊重と堕胎公認や避妊推奨とは並行して両立することはできないことは明らかです。

谷口雅春『心と食物と人相と』110頁)

 

 

 このように堕胎は勿論、避妊についても女性を「性快楽の道具」として扱うために行わせることは、女性の人権の尊重と両立しないというのが生長の家の教えであって、それは私も同じ意見である。

 最近は政府が「計画妊娠」を推奨するようなことはプライバシーの侵害として行いにくくなっているが、女性を「性快楽の道具」として見る風潮は、リベラル・フェミニストからネトウヨまで数多くの人間が風俗擁護やAV擁護を主張していることを鑑みると、谷口雅春先生の時代よりもむしろ今の時代の方がその点は酷くなっていると言える。

 生長の家だけでなくプロライフ(生命尊重派)の人間の多くが売買春のような女性への人権侵害に反対しているのであるが、少なくないプロチョイス(生命軽視派)の人間は表向き「中絶は女性の権利」と言いながら性産業を擁護しているのである。つまり彼らの言う「女性の権利」とは生命軽視のための言い訳であって、本気で女性の人権を尊重する気など毛頭ないという事である。

 さらに近年のリベラル・フェミニストは「自己決定権の尊重」を振りかざして「代理出産」までも認めようとしている。

 代理出産については谷口雅春先生の時代には無かった問題であるが、生長の家現総裁・谷口雅宣先生はこう説かれている。

 

 私は、数年前に出した『今こそ自然から学ぼう』(2002年、生長の家刊)の中では、代理出産に関してあまり書いていない。しかし、精子卵子の提供、受精卵の提供、卵子の遺伝子融合などの生殖補助医療技術を含めて、倫理的にどう考えるべきかの基準を1つ示した。それは、「子を親の幸福追求の手段とする」べきでないということである。これは、すでに現在いる自分の子が、多少なりとも自分の幸福追求の手段となっているとの現実があったとしても、それ以上に“罪”を重ねるなという意味である。代理出産の場合は、生まれてくる子に加えて、代理母となる人間を自分の手段として利用するという側面があるから、倫理性はさらに疑わしい。

(谷口雅宣「代理母をどう考えるか?」小閑雑感)

www.ssfk.or.jp

 


 

 私は代理出産の問題に関しては、すでに「反対」との見解を本欄などで表明している。その理由は、2006年10月3日と同16日の本欄で述べているので、詳しくはそちらを参照してほしい。が、ごく簡単に言うと、この方法は自分の幸福追求のために他人を手段として利用するから、倫理的に好ましくないということだ。この「他人」とは、「生れてくる子」と「代理母」の最低2人はいて、双子が生まれれば3人となり、夫以外に精子提供者が参加すれば、4人に増える。そういう人々が、100%の善意によって代理出産に協力するとは考えにくい。

(谷口雅宣「代理出産は原則禁止へ」小閑雑感)

www.ssfk.or.jp

 


 

 このように代理出産代理母となる女性と生まれてくる子供の2人の人生を依頼主の欲望のために利用するという事であり、女性の権利と赤ちゃんの生命とを奪う堕胎強要と本質的に同じ問題を孕んでいる。

 無論、堕胎強要の場合と違って赤ちゃんの生命を奪う訳では無いし、代理出産であると女性が金銭的対価を条件に同意をすることもあるであろうが、「お金の為に仕方なくすること」は決して「喜んで」行っていることでは無いのであるから、その点は人権尊重の観点から問題なのである。特に貧困の女性が多い状況においてはそうである。

 それは風俗やAVの問題でもそうであって、女性が風俗やAVに「お金の為に」出ているのであればそれは「喜んで」やっていることかと言うと、疑問符がつくものである。また、お金を受け取ることを「喜んで」いるとしても、排泄物(精液もその本質は排泄物である)や排泄器を素手で触ることまでを「喜んで」いるかは別問題であるし、仮にそういう変態趣味の方が一部にいてもそれを一般化して立法してはならないことは明白である。

 リベラル派は「自己決定権」という言葉を免罪符のように使うが、保守派は一般に「自己統治」の考えに立つ。自己決定権は「個人が,個人的な事柄について,公権力から干渉されることなく,自由に決定する権利」(マイペディア)であり、自己統治は「組織や個人が、外部からの影響を受けることなく、自ら規律を定め、自らの意思で自らの行動を律すること」(デジタル大辞泉)である。この両者は似ているようで対立することがある。

 つまり、経済的理由や他人からの圧力(彼氏による強要や「育てられないなら産むな!」という声の合唱)を受けて中絶を決断することは、妊婦が決断した時点で「公権力から干渉されることなく、自由に決定」したことであるので、自己決定権の観点からは問題ないことになる。しかしながら、自己統治の考えからすると、その妊婦さんが「私は胎児の生命など尊重するべきではないと考えている、むしろこの場合は中絶するべきである」という風に自分でルールを作っていて、それに該当するから中絶するというならばともかく、多くの女性はお腹の中の赤ちゃんにもいのちが宿っていると思っていて、お腹の中の赤ちゃんのいのちを尊重してほしいという強い願いを持っているのであるから、そういう場合に止むを得ず中絶をすることは「自ら規律を定め、自らの意思で自らの行動を律すること」に当て嵌まらず、専ら「外部の影響を受けて」行われた決断であり、自己統治の考えに反するのである。

 ただ、自己決定権と自己統治の考えの違いなどと言う小難しい議論をするよりかは、まず当人が本当に心の底から「喜んで」いるかこそが大切であると考える。これは今話題の多産DV等にも当て嵌まる話である。