生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

水子供養を否定するカトリック教会の考えはブラジルで闇中絶を増やしている可能性も

 万教帰一の観点から他宗教批判はなるべくしないようにしているのですが、私の信仰する生長の家キリスト教の原罪の考えを正面から否定しているので、クリスチャンの方とは意見が合わないこともあります。

 無論、コルカタの聖テレサマザー・テレサ)のように生命尊重の観点から活動されているクリスチャンの方には頭が下がりますし、マザー・テレサ唯一の公認伝記は日本では生長の家系の出版社である日本教文社から出版されていることでも判るように、カトリック教会の生命尊重運動と生長の家は連携してきた歴史もあります。

 

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 しかしながら、ブラジルでは残念ながらカトリック教会の考えは堕胎を減らすことにあまり貢献していないようです。

ブラジル人女性救う水子供養

 ブラジルでは、強姦や母親に生命の危機がある場合、無脳症児などの特別な場合以外の堕胎は禁止されている。カトリックは堕胎を「殺人」と見なし、水子を供養する儀式もない。だが2014年だけで100万件も違法堕胎がおき、うち警察沙汰になったのは33件のみ(エスタード紙2014年12月20日付電子版)。多くの若い女性は心に傷を抱えつつ、宗教に癒してもらえず苦しんでいる。
 それゆえ、ソニアさんは水子供養をとても重要視する。「たくさんの女性が堕胎をして罪の意識に苦しんでいる。堕胎は抵抗できない赤子の命を奪っていることなのか。堕胎した女性は一生、その苦しみを抱え続けなければいけないのか。毎年、婦人を集めて堕胎に関する集会をする。女性の体は自分のもの、じゃあ、子どもの体はどうなのか。イビウーナでは匿名の水子を慰霊する。そこで水子の存在が公に再認識され、女性は赦しを乞い、救いがもたらされる。生長の家には『死』は存在しない。堕胎した赤子は霊界で生き続けている。白鳩会はそのような世界観をブラジル全体に広めることで、女性を救う使命がある」
 ジョゼさんは「生長の家に来る人は、みな何かの救いを求めている。他の宗教では救われなかった悩みを抱えている。家族の不和、精神や肉体の健康上の問題など。それが教えによって実際に救われる」。生長の家にはキリスト教を補完する役割があり、それゆえに広まっているようだ。

ニッケイ新聞「なぜブラジル社会に広まるのか=キリスト教を補完する在り方=「月刊誌」を読んで治る」より

 ここでは違法な堕胎だけが取り上げられていますが、そもそも中絶が無くても自然流産の確率は全年齢で1割以上であるという事実があります。

 従って、仮に望まない妊娠が皆無で必然的に女性も堕胎を選択しない幸福な社会があったとしても、多くの国民は周囲に流産児がいると言うことになります。そう言う状況において流産児供養(水子供養)をしない社会は果たして健全なのか、という疑問があります。

 無論、カトリック教会の考えは教義に基づいたものですから、私はそれを正面から否定する気はありません。こちらはプロテスタント系の団体のサイトからの引用ですが、概ねキリスト教会側の認識を示すものと言えるでしょう。

A:一般的に、水子とは死亡した胎児のことを言います。この方の場合は、一人は事故死、一人は堕胎による死ということですね。聖書的に水子供養をどう考えればよいのか、いつものように3つ申し上げます。

1番目に、中絶は罪です。

中絶の背後に止むに止まれぬ事情があることは、よく理解できます。しかし、胎児というのは母の胎内に宿った瞬間から、人間です。妊娠初期にはまだ人間ではないとか、生まれるまでは人間ではないといった考え方は、聖書にはありません。堕胎とは、人間の命を奪うことです。中絶を行った女性の多くが、その後、自責の念に囚われたり、うつ状態に陥ったりするのは、そのためです。

2番目に、十字架によって赦されない罪はありません。

聖書には、水子供養という教えも概念もありません。日本でその習慣が広まったのは、1970年代に入ってからです。寺院が経済的な安定を求めて、水子供養を宣伝していったようです。これを「水子ビジネス」と呼ぶ人もいます。罪責感からの解放は、水子供養によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。イエス・キリストの十字架の死によって、私たちが犯すすべての罪の代価は支払われました。罪の赦しを受け取る唯一の方法は、イエス・キリストを救い主として信じることです。まだクリスチャンでない方は、イエス・キリストを救い主として受け入れてください。すでにクリスチャンになっているなら、十字架によって罪の代価が支払われていることに感謝し、死んだ胎児の魂を神に委ねてください。胎児の魂は、神のもとに行っています。

3番目に、罪赦された人には、新しい使命が与えられています。

いつまでの罪責感を抱えながら生きることは、神の御心ではありません。イエス・キリストを信じる信仰によって罪責感から解放された人は、同じ苦しみの中にいる人たちを助けることができます。神の愛を一人でも多くの人に伝えるのが、霊的に新生したクリスチャンの使命です。水子供養は、不要であるばかりか、キリストの十字架の価値を認めない行為です。

seishonyumon.com

 ここで水子供養は1970年代からと書いてありますが、生長の家は1960年代に「全国流産児無縁霊供養塔」を建立しているんですよね。いわゆるプロチョイスの人間は意図的にこのことを無視していますが。

 こうしたキリスト教側の考えの前提として、そもそもキリスト教は一般に先祖供養を行わないということがあります。

 もっとも、上記サイトはカトリック教会と比べてやや教条主義的な傾向のあるサイトですが、カトリック教会では先祖供養の儀式を信徒が行うこと自体は否定していないようです。

 カトリック中央協議会発行の『カトリック教会の諸宗教対話の手引き』はとても参考になる良書です。親族や家庭の中で自分だけがカトリック信者という方のための必携の書といえます。第1章は諸宗教対話の心、第2章諸宗教対話の実践、質疑応答編となっています。第2章では、初詣、厄年、おみくじ、星占い、先祖の供養と供養、命日、墓の方位など気になる質問と答えが並んでいます。いくつか引用してみましょう。

Q22 位牌はどうしたらよいでしょうか。

A すでに先祖の位牌があるときには、故人の追憶を深めるために、そのまま家庭祭壇に置きましょう。仏壇の位牌であれば、そのままにしましょう。位牌には戒名が記されていますが、カトリック信者には洗礼名があります。信者の位牌を置くときには、十字架のしるしと洗礼名を書き添えましょう。

Q25 家族の中でわたしだけがカトリック信者ですが、仏壇の前に手を合わせ、鈴を鳴らし、ご飯を供え、祈りなどしてもよいでしょうか。

 A たとえ先祖の方が洗礼を受けていなくても、善意のうちに世を去ったすべての先祖のために祈り、その保護を求めることは、その家族の一員として尊い務めです。

  仏壇に手を合わせるとき、たとえば「主よ、〇〇〇〇さんに永遠の安らぎを与えてください」と心の中で祈ります。そして、鈴を鳴らし、ご飯を供えるのは、先祖に対する愛情と尊敬の表現として行われるのですから、その気持ちで、これらのことを行うようにしましょう。

himonya-salesio.jp

 ただ、積極的に先祖を供養する考えもなく、特に仏教だと生前どんなに不信心な人間でも死後に授戒するというウルトラCがある一方、キリスト教では死後に洗礼を行うことは基本不可能であるということもあり、先祖供養や流産児供養の考え方は仏教徒とは必然的に異なってくるでしょう。

 私個人の考えですが、ブラジルみたいに「堕胎は罪であるから法律で禁止する」としたところで、堕胎への抑止力にはならないと考えます。

 というのも、人間を「罪人」であると教会で教えているのに、今さら「罪を犯すのは止めよう」とおもうのか、ということです。堕胎をして後悔をしている人たちや堕胎をしようか迷っている人たちを救うためには、まず「貴女は罪人ではありませんよ!」ということが必要では無いでしょうか?

 念の為に言いますが、カトリック教会の考えが間違っていると言いたいのではありません。

 そもそもブラジルの生長の家信徒の多くはカトリック教会の信者ですから、カトリック教会も実際には流産児供養を黙認しているのでしょう。

 先祖供養や流産児供養の意義については別に記事を書きます。