因果眩ますこと能わず
世間では「因果応報」とか「勧善懲悪」とかを信じている、或いは、信じてはいない(無宗教である)が理想視している(道徳として尊重している)方もおられるようである。
一方、私は「神は愛なり」という生長の家の御教えを信じる者であるから、罰を下すような神を信じはしないし、また、人に罰を与えることが必ずしも良いとは思わない、ただ、国家の秩序を保つためには罪を償わせる必要もあるが、やはり罪を償わせることによってどんな犯罪者でも更生できるようになるのが理想である。
ところで、神が罰を下すことは信じないと言っても、一見「因果応報」と見えることはある。
私はこの世界は一種の修練場、「人生学校」という方もいるが、そういう場所であると思っている。
生長の家では「外界は内界の現れである」と説く。神は愛であるが、私たちの心の中に愛がなければ、世界に遍満している愛に気付かない。例えば、心の中で争いを浮かべていて、その結果本当に誰かと争っていても、それは神が罰を下したのではなく、自分が争いの心を持っていた結果である。
さて、今月の1日に私はとある政党の青年組織の副代表になったところ、ネット上で東大教授を含む様々な方から激しい非難を受け、また、それに便乗してデマを流す方もおり、その中には立憲民主党の顔見知りの党員までもがいたのであった。
結果、私は副代表の職を即日解任となったが、私の言動に対して批判を受けたのであればそれは表現の自由の範囲内であるし、私自身に原因があることであるから、私も批判を覚悟で行動しているのであるから仕方のないことであるけれども、中には私が日本会議に近いとか、安倍元首相と同じ思想である、等と言う事実無根のデマを流すものがおり、それを見たときは、怒りを抑えるのに苦労したのである。
私は母親のお腹の中にいる頃から生長の家の信徒であり、ご存知の方も多いと思うが、生長の家は私の生まれる遥か前の昭和58年(西暦1983年、皇暦2643年)に自民党と訣別していたのみならず、平成28年(西暦2016年、皇暦2676年)からは3度に渡って自民党と公明党への不支持を表明しており、また、日本会議関係団体からは生長の家の宗教活動への様々な妨害を受けているのであり、生長の家は日本会議や安倍元首相とは正反対と言っても良い立場である。
そのような生長の家を信仰する私にとって、日本会議や安倍元首相の支持者であるかのように扱われることは、耐えがたき苦痛であった。
しかしながら、内界は外界の現れであり、また、神は愛であると言う信仰を持つ私は、このことも私の心の反映なのであり、また、私にとって勉強となることであると考えることにしたのである。
私が真っ先に学んだのは、「神は愛なり」「神の子である人間も愛である」という事であった。
ある友達は今回の件で私が人間不信に陥るのではないか、と心配されたが、逆であった。あれだけ激しい誹謗中傷に晒されても私を気遣ってくれる友人が存在することで、私はもっと人間を信用しても良いという勉強を成すことが出来たのである。
そんな中、とっても猫さんの次のツイートが私の目に留まったのであった。
本多さんをデマから守れなかった立憲民主党はまた立憲ユースの日野さんもデマから守ることができなかった
— とっても猫 (@Zsv58WzxyyWq8NF) 2021年12月9日
本多平直氏はなぜ辞任したのか―政治的正しさよりも大切なもの―|馬の眼 ishtarist @ishtarist #note https://t.co/UN1U13Fmdt
私はこれを読んで衝撃を覚えたのである。私は本多議員を批判していた一人であったし、今でも彼とは意見が合わないと思っているが、だが、彼に対するデマに気付かずに彼への炎上に便乗したこと、それは私の大きな過ちであった。
政治家の責任の取り方は、事実に基づいて議論することが大前提であって、デマに基づく炎上の責任を取って辞任をすることなど、あってはならないことである。しかしながら、それに私自身が加担していたのである。
しかも、私はこの時の報道が捏造報道である可能性を、当初自覚していたのであった。
実際には本多議員は「中学生と性交」というような表現は用いていなかったという事であり、当該発言の存在自体が怪しいことは私も当初から認識していたにも拘らず、いざ本多議員の名前が挙がると様々な先入観から明確なファクトチェックをせずに炎上に加担したこと、これは私の過ちであること、言うまでもない。
あまり「因果応報」という言葉は使いたくないが、今回、私が同様の目に遭ったことはまさに「因果眩ますこと能わず」としか言いようが無いのである。
そして、そのようなことを教えてくださったこの件は、誠に有難い勉強であった。
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