生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

直系と父祖は本当に関係があるのか?という素朴な疑問

 早速トキ掲示板でtapirさんが反応してくれた。曰く、

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直系  祖父・親・子・孫と血筋が“父祖”から子孫へと一直線につながる系統。
(直系 コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B4%E7%B3%BB-98414

父祖〘名〙: 父と祖父。また、先祖。祖先。
※令義解(718)賦役「凡三位以上父祖兄弟子孫、及五位以上父子、並免二課一」
(父祖 コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E7%88%B6%E7%A5%96-618603

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という事であるらしいが、やはりコトバンクの辞書には直系を「血筋が“父祖”から子孫へと一直線につながる系統」であるとする根拠は示されていない。

 私の質問の仕方が悪かったのかもしれないが、私は「直系=血筋が“父祖”から子孫へと一直線につながる系統」という根拠がコトバンクにはなかったので、疑問を抱いていた。

 なお、『令義解』の当該部分は「父と祖父」と言う意味の出典である。「先祖」「祖先」と言う意味では無いため、「直系=父系」と言う意味の出典にはならない。

 なぜ私がこのような細かい点を言っているのかと言うと、「直系=父系」と言うのは、恐らく江戸時代ぐらいに出来たイデオロギーを基に近代以降に出来た図式ではないか、と疑うからである。

 まだ私の調査力不足で根拠薄弱なため発表していなかったが、公家の世界で男系継承が重視されるようになったのは『禁中並公家諸法度』以来のことではないか。

 『禁中並公家諸法度』第6条には、

養子は連綿、但し同姓を用いらるべし。女縁がその家督を相続するは、古今一切これ無きこと。
〔日野訳〕
養子で(家は)絶えないようになるが、同じ本姓の者を(養子に)しなければならない。女系で家督を相続することは古今を通じて一切無かったことである。

とある。小野宮家や阿野家が「異姓」の「女縁」の者に継承されていった事は著名であり、それを有職故実に拘る朝廷が知らなかったはずがなく、しかも強引に女院治天の君にした北朝が正統であると言うのが当時の朝廷の見解であるから、「女縁がその家督を相続するは、古今一切これ無きこと」とは口が裂けても言えないはずである。

 だから私はこれを徳川家康による押し付けではないかと疑ったのであった。

 では、どうして徳川家康が公家に男系継承を押し付けたのか、と言うと、一つしかない。

 当時の徳川幕府は公家だけでなく大名の養子縁組も厳しく規制していたが、それにより多くの大名が家を存続させることが出来ず、お取り潰しに遭っていった。

 つまり、徳川幕府が養子縁組を制限したのは「養子縁組を制限すればその家は断絶するであろう」という事であり、公家の養子縁組に「男系絶対」という条件を加えたのも、公家の家督を継ぐ者がいなくなる状態を作り出すことが目的であったと推察されるのである。

 話を戻すと、「直系=父系」というのは現代の辞書には確かに記されてはいるが、そのものズバリの用例はやはり無いようである。『令義解』の内容は賦役免除についてのもので「直系相続」について触れたものでは無いし(そもそも律令国家は分割相続)、「直系」と言う言葉も当時は一般的では無かったのだろう。

 さて、tapirさんが興味深いことを書かれていた。

思いつきですが (52828)
日時:2022年09月01日 (木) 22時00分
名前:tapir

原理主義という言葉を、谷口雅宣総裁がよく使われますが、耳新しい言葉で、今ひとつピンと来ないでいます。
けれども、谷口雅春先生の御教えの言葉に当てはめると、「人時処の三相応を得る」と「思い全相に至らざるを迷いと言う」という重要な教えを軽視するのが、原理主義者の主な特質ではないかと、ふと思いました。

日野さんは、どう思われますか?

答えは急ぎません。気が向いた時に、お考えを聞かせてください。

 本部から解き放たれた(笑)今の私にだからできる話なのだと思う。

 あくまでも私個人の見解であるが、中心帰一には色々な道があると思う。

 私が単青委員長を辞めると「自主的にして頂いて、ありがとうございます」と、ある方からメッセージが来た。「わざわざそれを本人に送るのか」と思ったが(笑)、本部が私をどう思っているのかが露骨に示されたのは良いことである。

 だからといって、私は総裁先生への中心帰一を放棄するつもりは一切なく、ただ、中心帰一の信仰を表現する方法がこれまでは違う、という事だ。

 より正確には「生長の家大神――総裁・副総裁――御教え」への中心帰一である。この「総裁・副総裁」というのは「現在・過去・未来の総裁」と言う意味に解釈しても良いと思う。

 その中心帰一の方法は、まさに「人時処」によってさまざまな形があり得るし、だからこそ本部の方針も変化する訳であるが、それを「この形しかダメだ」というのが原理主義ではないかな、と思う。

 例えば、日本会議は現行法制化を前身団体の成果として強調していることからすると、その成功体験を元に運動論を構築してできた組織なのかもしれないが、その運動論では『優生保護法』改正は出来なかった。今の日本で堕胎の問題に最も取り組んでいるのは日本会議ではなくいのちを守る親の会であることを見ても、過去の運動の形に捉われてはダメということが判る。

 また、いのちを守る親の会が素晴らしい活動をしているからと言って、それをすべてコピーして他の運動をしようとすると、必ず処を得ない処が出てくる。例えば、いのちを守る親の会はその性格上、政治的な対立をさけており、プロチョイス批判すら行っていない。それは赤ちゃんのいのちを守ると言う上では大切なことであるが、他の運動に通用するかは別問題であろう。

 谷口雅春先生のご著書を読むと、憲法改正派との違いを記しているところもあれば、憲法改正派と連携すべきと言っているところもあり、後者が今の日本会議なのであろうが、谷口雅春先生の運動論についての文章を金科玉条にするのは、処を得ないと思う。

 いや、谷口雅春先生の運動論を真似ると一定の成果は上げられるだろうが、谷口雅春先生は運動論の違いで他者を攻撃はしなかったのである。相手の実相を礼拝すると言う一点を忘れて、表の運動論だけを金科玉条に守る、それを原理主義と言うのであれば、私もその用法に賛同する。

 だから私は、読者の皆様は私と本部の間に何があったのかは色々と察してくださっているとは思うが、本部批判はしないのである。私と本部は中心帰一の方法が違うだけであり、方法の違いで攻撃しあうと、それこそ御教えへの中心帰一が出来ていないと言うことになるのである。