大乗の宗教は政治・社会問題に「中立」であってはならい――tapir様への回答(2)
これは私の持論ですが、政治的に中立な宗教というのは、小乗の宗教はともかく大乗の宗教としては偽善であると考えています。というのも、政治(権力者やその候補)が宗教に対して中立では無いのに、宗教が政治に対して中立であるならば、結果的に宗教家が権力者に追随するということになり、延いては、もっとも道徳的であるべき宗教家が権力者の非道を眺めるだけと言う事態に陥るからです。
実際、過去には宗教が「政治的中立」を貫いた結果、現在断罪されている例もあるのです。
それは、ロシア正教会です。二月革命の時、ロシア正教会は「中立」を守って積極的に帝政を守ろうとせず、結果的に臨時政府を追認した、そのことが今非難されています。
正教会では為政者のことを祈ります。日本正教会は 天皇陛下のことを祈って下さっています。それは素晴らしい事なのですが、同様にロシア正教会はニコライ二世のことを祈っていたにもかかわらず、いざ革命でニコライ二世が失脚すると、彼を助けようとはしなかった、じゃあ、彼らの祈りは言葉だけだったのか、と非難する人が出てきても、それは仕方がないことです。
無論、当時のロシア正教会には総主教がいないという事情があり、さらにその総主教制を廃止したのは他ならぬ帝政であったという事実もあるのですが、いずれにせよ、ロシア帝国も臨時政府もソ連も宗教に対して中立ではなかったわけで、宗教家が政治的に中立を守るというのは、総主教制を廃止したロシア皇帝のために祈り、その皇帝が殺されても眺めているだけ、そうこうしているうちにソ連になって本格的に宗教が弾圧されるようになったから慌てて逃げる、残された信者の相当数はスターリンに殺されてしまった、と、政治的な動きを何もしていないからこそ、逆に犠牲者を増やす羽目になることもあるわけです。
私がどうしてこういうことを言うのかと言うと、tapir様が次のような「提言」をされているのを見たからです。
1、「實相」額の前に経本を安置した「七重塔」の縮小模型及び「造化の三神」社殿を設置するという通達の即時撤回
2、財団法人生長の家社会事業団との間での、『生命の實相』、『聖経四部経』出版に関する著作権交渉を開始する
・生長の家本部の利益を考えずに、信徒・読者の手に『生命の實相』『聖経 四部経』が広く行き亘ることを第一に考えていただければ、話し合いは、思いの外、順調に進むと思います。
3、造化の三神を生長の家総本山の主祭神としたことの再検討
・造化の三神を主祭神として生長の家総本山の龍宮住吉本宮に祭祀することの意義を明らかにする。幽の幽なる神を顕祭できるのか等、住吉大神の顕祭との関係を明らかにし、祭祀の正当性を信徒の総意にするべく努力をする。
4、谷口雅春先生御著作の『聖経 四部経』と、谷口雅宣先生御著作の経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』との格付けを明らかにする
・経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』は講話の中のテキスト、サブテキストとして使用するのは良いが、供養祭、浄心行、早朝行事等では『聖経 四部経』に代わるものとして使用することは止める。供養祭、浄心行、早朝行事等で使用するのは聖経のみとする。谷口雅宣先生が『経本』は“「聖経に取って代わるもの」を意図していない”と言われた原点に戻す。
http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2012/05/post-bcc3.html
5、谷口雅宣先生・生長の家本部の重要事項を独断専行で決定し、地方教化部が無条件で容認することになる現行制度の見直し
・重要事項については、谷口雅宣先生・生長の家本部が独断で決定したことを無条件で容認することになる現行制度を見直す。重要事項については、広く地方信徒の衆議を集めて、議論の上、決定、場合によっては否決できる制度を整備し、実施する。
6、生長の家における、天皇・皇后両陛下を始めとする皇室を尊敬申し上げてきた歴史、並びに日本国の歴史を学び、その現代的な意義を明らかにする
・古事記・日本書紀神話の天照大御神を祖神とする天皇陛下を生長の家創始者谷口雅春先生が御尊敬申し上げてきた歴史を学び、その現代的な意義を明らかにする。
・大東亜戦争について、全面肯定でも全面否定でもない、是々非々の評価を行う。
・重版保留聖典の再版検討。
7、運動の見直し―「生長の家人類光明化運動」の復権
・『生命の實相』を根本聖典とする生長の家の御教えの「求道と伝道」を中心に据えた立教当初の「生長の家人類光明化運動」を復権する。
・環境運動等の対社会的運動は原則として取り組まない。取り組む場合もあくまでも副次的なものとする。
・人間神の子を輩出する、本部練成道場並びに教区の、練成会の開催を支援・強化する。
・誌友会、母親教室開催を、積極的に支援・推進する。
この「1」「3」については正直同意は出来ないですが、他の部分については「なるほど」と思う部分もあります。
が、「4」については明らかに私への批判である部分がありますので、まずここに反論させていただきます。それはこの部分です。
経本『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』は講話の中のテキスト、サブテキストとして使用するのは良いが、供養祭、浄心行、早朝行事等では『聖経 四部経』に代わるものとして使用することは止める。
私は『大自然讃歌』を浄心行で使ったケースは知らないのですが、『観世音菩薩讃歌』を浄心行で使おう、と言うのは私の提案であります。
これは「5」とも関係してきますが、教団は決して本部の独断専行の組織ではなく、総裁独裁の体制ではなくて、地方が自主的に「こうしたい!」と言えば大抵実現します。最近某掲示板で話題の妹尾先生の祈りもその一例です。
で、私は昨夏の青年練成会において橋本百合子先生らと3つの提案を行い、その全てが青年会の教区委員会で全会一致で可決され、さらに教区の七者会議でも全会一致で可決されたという経緯があります。その3つは次のようなものです。
1.開会式には「生長の家高校生連盟の歌」を流す。
2.浄心行では『観世音菩薩讃歌』を使用する。
3.堕胎に関する話を盛り込むこととする。
この3つはいずれも本部の方針にあるものではなく、教区の青年会の発案が教区行事として正式に認可されたわけです。
ではどうして『観世音菩薩讃歌』で浄心行を行ったのか、それは『観世音菩薩讃歌』が聖経『甘露の法雨』と実質的に同じ功徳のある経典であることを明徴にするためです。
ちなみに、これまでも浄心行を『天使の言葉』で行う教区がありました。つまり、浄心行は『甘露の法雨』でないと絶対にいけない、ということではなく、同じ功徳のある聖経であるならば問題が無いということなのです。
『観世音菩薩讃歌』が『甘露の法雨』と同じ功徳のある経典であることは一度それを読誦すれば一目瞭然であり、失礼ながらtapir様はホンリュウ派の偽情報を信じてしまい、『甘露の法雨』を読誦されたことが無いのだと思います。
また、『観世音菩薩讃歌』には立派な「現証」もあります。
ご存知の通り、私は女性に縁のない男として著名でありました。tapir様も御存知のことと思います。何故実際あったこともない人間がそれを知っているのかは不明ですが、訊けさんの投稿を見ると私が女性と縁がないことは「会わなくとも判る」話なのでしょう。
そんな私ですが、ここ最近は先祖供養で読誦するのは主に『観世音菩薩讃歌』であって、『甘露の法雨』は全く読誦していません。そんな中、奇跡みたいな出来事が起きたわけで、昨日もこんな感じです。
・・・こんな奇跡、そうそうないので、幸せ自慢をすることをお許しください。あるリア友にも「嘘でしょ」と言われました。これを見ている読者の方も驚かれていることでしょう。
誰がどう考えても、これは『観世音菩薩讃歌』で先祖供養をしていた功徳です。私の力のわけ、ありません。
これでtapir様も『観世音菩薩讃歌』の功徳については痛感されたと思いますが、さて本題に入ると「7」です。
この一文は、おかしくありませんか?
環境運動等の対社会的運動は原則として取り組まない。取り組む場合もあくまでも副次的なものとする。
いやいや、生長の家は大乗の宗教なんですから、取り組まないとダメでしょ!
tapir様には釈迦に説法だとは思いますが、生長の家は菩薩行に邁進する宗教なのです、それも、実生活において菩薩行を実践する宗教なのです、商売すらも愛行としてやらなければならない、生長の家信者であることを明言している大物宗教家としては稲盛和夫先生が居られますが、稲盛先生はまさに商売も政治も愛行として全力で取り組まれています。
稲盛先生が結党に参画した日本未来の党が成功していれば、今頃原発もなくなって日本は平和になっていたでしょうが、民主党政権時代に稲盛先生が政府の依頼で全日空を再建したことも、まさに菩薩行として素晴らしい愛行でした。
こういう経営的なことは稲盛和夫先生レベルでないと出来ないでしょうが、一方で「数は力」となる分野においては、生長の家の組織会員が一丸となって行う必要性のあるものもあります。
ここで勘違いしてはならないのは、生長の家で言う伝道というのは、稲盛和夫先生のような人間を育てることであり、ロシア革命の時に皇帝を見殺しにしたような輩を育てることではない、ということです。
教団が配布した今回の新刊書でも「生長の家信徒行持要目」の一番最初に「天皇の恩、国の恩に感謝しなさい」とありますが、ただ天皇陛下に口先だけ感謝しておいて、「譲位」騒動を始めとする朝敵売国路線を推進する自民党や公明党に投票しているようでは、心の底から感謝しているとは言えない、本当に感謝しているならば、それは必ずや選挙の投票先にも反映されるというものです。
そういう意味で、生長の家が政治的に中立であることは、絶対にあり得ません。
また、スーパーシティ構想と言うトンデモナイ法律も可決しましたが、これは日本を中国並みの監視社会にする法律で、片山総務大臣は中国の協力を得て推進することを明言しています。
生長の家がこの法案に反対したのは当然のことで、もしも生長の家がこんなトンデモナイ法律ができるのを黙って眺めていたら、ソ連成立を阻止しようとしなかったロシア正教会の二の舞になってしまいます。
で、いざ中国並みの監視社会になって、中国と連携した独裁国家になると(一帯一路で経済的にも安倍政権は中国依存を強めており、そのせいでコロナ騒動でも私たちは困ったわけですが)、反対の声を上げようにも上げられないことになりかねないのです。
宗教が政治的に中立であってはならない、と言うことはロシア革命を始めとする様々な歴史が証明して下さっていることなのです。
谷口雅春先生もそのことを当然、理解されていました。谷口雅春先生がどれだけの想いで政治運動や社会運動に取り組まれたか、を考えた時、tapir様の件のセリフは決して出て来ないはずなのです。
『信仰による平和への道』について
この本がどうして重版されていないか、tapirさんが某掲示板に書かれているが、私も明確な理由は知らない、しかし、二つほど情報を聴いている。
一つ目は、これが両軸体制を前提としているから不適切である、というものである。
二つ目は、どうも谷口雅宣先生としては森田征史先生に押し切られてしまったような面が、当時の運動方針にはあったらしい、という話である。
そこら辺の事情を詮索しても仕方がないが、『信仰による平和への道』をテキストに使わなくとも今の運動を推進できると判断した、それが重版しない判断の一つにあることは、確実に言える。
無論、『信仰による平和への道』を「引用」することには何の問題もない。雅春先生の重版保留書からの引用も同様である。
ついでに。
妹尾先生が兵庫教区の教化部長になられて住吉大神の祈りをするようになったことが、ホンリュウ派の掲示板で話題になっているそうである。
また、妹尾先生の祈りには造化の三神の言葉もある。妹尾先生は谷口雅宣先生に心から中心帰一されているし、また、雅宣先生の本心もよくご理解されている方である。
妹尾先生が教化部長に赴任されたことは、我々にとって大きな福音である。
祭神変更というデマ――tapir様への回答(1)
私は気付かなかったが、今朝コメントを読んでtapir様が私のブログにも関係のある文章を書いていてくださったことに気付いた。
そこで適宜引用しつつ反応させていただこうかと思う。
通達支持と不支持の意見の比較と考察 ― 1 (28036) |
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まず、大前提として「住吉大神のお札が無い=住吉大神を祀っていない」とはならない、ということである。
龍宮住吉本宮では確かに住吉大神への祭祀が行われているが、神札の配布はまた別問題である。
生長の家の運動方針で造化の三神の神札作成を最優先にしている結果なのだろうが、いずれ住吉大神の神札も頒布はされるであろう。
なお、『宗教年鑑』によると生長の家は二つの神社(龍宮住吉本宮と宝蔵神社)を包括しているが、この神社には宗教法人格がないことになっている。
実務上は、龍宮住吉本宮は「生長の家総本山」(これも法人格が無い)の、宝蔵神社は「宗教法人生長の家宇治別格本山」の管轄下に置かれているわけだが、私が見た限り昔からそうなので、或いは谷口雅春先生の意思で神社は宗教法人には相応しくない、ということになっているのかもしれない。
『神の真義とその理解』を読む限り、谷口雅春先生は神社が宗教法人であること自体に否定的でそれを政治活動にも反映させようとしていたわけだが、仮に生長の家政治連合の主張が受け入れられて(どういう制度設計にしようとしていたかは判らないが、例えば)神社が宗教法人とは別の「神社法人」となった場合には、龍宮住吉本宮と宝蔵神社も新たに法人格を取得させていたのだろうか?
こういう話をするのは、もしも龍宮住吉本宮と「宗教法人生長の家」が別法人であれば、話はまた変わっていたと思うからである。いずれにせよ、現状では龍宮住吉本宮は生長の家国際本部と会計も人事も一体化しているのであるから(「宗教法人生長の家宇治別格本山」の法人格が独立している理由も不思議だ)、本部の運動方針によって神札頒布の方針が左右されるのは、当然のことではある。
宝蔵神社も龍宮住吉本宮も国家神道体制下の神社とは明らかに違ったものであるが、今でも両神社の巫女は明治神宮や靖国神社で研修を受けるので、雅春先生は神社本庁包括下の神社(靖国神社は違うが)に準ずるものとして両神社を考えていたようである。
そこら辺の雅春先生の構想がどうだったのか、最終的に宝蔵神社と龍宮住吉本宮とをどういう形態に持っていこうとしていたのかは、大いに気になる處である。
今さら何を言っているのか
昨年7月、「トキ」掲示板に投稿された私への事実無根の誹謗中傷を並べた記事に対して(スクショ、スクショ2 )、ようやくトキ管理人が対応しているらしい。
何を今さら、という感じがする。
私に対する誹謗中傷記事はこれだけではないが、トキ管理人はこれまでそのすべてを放置していた。
今回の記事も一年近くなってようやく対応である。無論、他の記事には一切対処していない。
「早期に削除を」というが、ならばどうして早期にそれを言わなかったのか。トキ管理人が放置している間に、この偽情報をホンリュウ派が利用して私への人格攻撃を行っている。
ホンリュウ派の仲間と思われたくないから、慌てて白を切っているのであろうか?
ハッキリ言って、トキ管理人は中立を装いながらその内実はホンリュウ派の仲間であり、私へのデマも平気で流している。
例えば、かつて私がFacebook内の秘密グループに投稿した「ジョーク」がホンリュウ派の手によって流出・炎上したとき、それを恰も私の政治的な言動が理由である、という事実無根の解説を行った。
その内容は政治とは全く無関係なジョークであるのだが、トキ管理人は何としてでも私を政治的に偏向している人間に仕立て上げたいらしい。私は生長の家の御教えに則った政治的発言しかしていないのであるが。
また、菜食を偏食と言ったり、アニマルライツの活動を「おかしな活動」と言ったりしているのは、他ならぬトキ管理人である。
さらに、過去に私が生長の家宇治別格本山の職員を「密告」した、というデマが流れた際、トキ管理人は「その職員は懲戒処分を受けるでしょう」「その職員は日野君が原因で人間不信に陥っている」等という出所不明の情報を掲示板に流した。
もしもそれが事実であるならば、宇治の職員には私を指導して下さった方もいるし、また、研修生時代の同期もいるし、私がそんな大問題をしたならば「目上の人間として」或いは「友人として」私に叱責乃至忠告される方は沢山いる。
しかし、私は宇治の職員誰一人からも「懲戒処分を受けた人がいる」とか「日野のせいで人間不信になった人がいる」と言った情報を聞いていないのだが、やはりトキ管理人によるでっち上げでは無いのか?トキ管理人以外にそのような情報を言うものはいなかった。
また、元々の私の「密告」の話もホンリュウ派によるデマである。私が一体、どこの誰に密告したというのか、誰も具体的な話をしていない。
ただ、訊けという人によると私が密告した先は「本部ではない」らしい。じゃあ、どこに密告したというのか。
よくぞまぁ、そういうデマを平気で流せるものである。
今頃になってホンリュウ派が平気でデマを流す人間だとバレてきたから、自分はその仲間とは思われたくない、ということで正義感を装っているようだ。
これまで私への侮辱を放置していたことを遅まきながら反省した・・・わけだったら、私も過去のことをとやかくは言わないが。
「天使」というのも「神」なのである
現在、このブログの読者は減ってきている。私の記事の読者の多くは私のnoteに移行しているのである。
noteについては毎月数万人単位の読者がいるが、このブログは毎月千人前後である。読者数の桁が些か異なるのである。
そのため、今でも熱心にこのブログを読まれている方と言うのは、だいたい層が限られるわけで、そう言う方は私が生長の家の信者であることを御存知の方も少なくないと思うので、生長の家のやや踏み込んだ話を書こうと思い、当初は「谷口雅宣先生は無辺行菩薩である」というテーマを記そうと考えていた。
だが、生長の家の信者であってもついていけないようなことを記すと、色々誤解を招きそうなのである。何事も順序を追って説明しなければならない。
私は先祖供養にも基本『観世音菩薩讃歌』を読誦するようにしているが、この『観世音菩薩讃歌』の功徳はとても素晴らしいものがある。
先祖供養は勿論、人間関係、恋愛、精神安定等々、様々なことに功徳があるのは私が経験済みである。
その『観世音菩薩讃歌』を記したのが谷口雅宣先生であるが、『観世音菩薩讃歌』の内容は「天使」が述べたことになっている。
これは谷口雅春先生が記した『甘露の法雨』や『天使の言葉』と同じなのである。
さて、『天使の言葉』には次の一節がある。
吾れは喇叭なり。
汝らよ――
吾れ個神を善しと云う事勿れ。
形に現れたる神を讃むること勿れ。
吾に宿る善きものは皆普遍なる神より来る。
汝ら吾が示すところの神を崇めよ。
吾れを崇めよと云うには非ず。
吾れはただ天使なり、
吾れみずからの本性の神なることを観たれば、
吾れ汝らの本性の神なることを悟らしめん。
ここで「個神」という言葉が出てくる。そして、ここでいう「吾れ」は「個神」であり、且つ「天使」である。
このことから、ここで言う「個神」はキリスト教やイスラム教でいうような「唯一絶対神」(創造神)ではなく、仏教でいう「天部」に当たる存在であることが判る。
このことは、谷口雅春先生ご本人による解説でも次のように記されている。
キリスト教では、神は唯一つしか在さない。唯一つの神の他にいろいろの神が在すというのはまちがいである、と言います。それで日本の各所に神社、仏閣があり、そこに神仏を祀って神様、仏様と言って拝んでいる様を見て、「あれは迷信だ、そんなにたくさん神があるなんてことがあるものか、あれは偶像崇拝だ」といって非難攻撃する牧師がよくありますが彼らは思い違いをしているのであって、日本の各所の神社仏閣に祀ってあるところの神々は、何もキリスト教で言うところの唯一神ではない、唯一神からいろいろに分かれて出て来られる、キリスト教的に言えばミカエルとか、ケルビムとかあるいはガブリエルとかいう、天使を祀ってあるわけなのです。(『生命の実相』第23巻89頁)
『甘露の法雨』『天使の言葉』を表すとき、谷口雅春先生は「個神」として、「天使」として、この聖経を書いたのである。しかも、ただ「個神」として書いたのではなく、その「個神」としての「個」たる「吾れ」はあくまで「喇叭なり」として、「無我」の境涯で書かれたのである。
そのことを、榎本恵吾先生は次のように記されている。
聖経『甘露の法雨』は、天使(てんのつかい)が歌い給い、語り給うたとなっており、また大聖師は、自分は神のラッパであって、吹き給い、語り給い、書き給うのは神にまします、と言っておられるのである。それは、そのように天使(てんのつかい)または神の名をかりて歌い語った方が、自分に責任はなく、その方が権威があるからとかということでは決してないのである。まことにもそれは大聖師の消え切りの、澄み切りの極致においてのおすがたであったのである。
著書も消え切りであり、著者自身が消え切り、全くのゼロであるとき、神のみ渾べての渾べてであり給いて、書物は神殿どころか、神そのものにましますのである。著者もまた聖の聖なる、至上なる神にましますのであった。
それを拝するとき、拝読するものもまた、自分は最早やなく、消え切りであり、著者が消え切り、書物が消え切り、読者が消え切りの、神のみすべてのすべてなる荘厳となっているのであった。(榎本恵吾「幽斎殿Ⅴ」)
この榎本恵吾先生の言葉に接するとき、『観世音菩薩讃歌』の主語がなぜ『甘露の法雨』や『天使の言葉』と同じ「天使」なのか、が明徴となるのである。
谷口雅宣先生もまた「消え切りの、澄み切りの極致において」『観世音菩薩讃歌』や『大自然讃歌』『日々の祈り』を著されたのである。
ときみつる会の宗教法人化を祝福します
ときみつる会が宗教法人格を取得された。学ぶ会よりも早く取得していたらしい。
学ぶ会系の方の何には、今頃になって安倍政権を非難している方もいる。学ぶ会本体は未だに安倍政権支持らしいが。
それにしても、数年前に私が「安倍政権は朝敵売国政権である」「安倍政権は唯物論左翼である」というと、彼らは一斉に私を攻撃していたものだ。
私は今でも未熟であるが、数年前の私はもっと未熟である。その、未熟の中の未熟な青二才よりも洞察力のない人間が、匿名で他人を非難する。それが、学ぶ会を始めとする自称本流の方の実態であった。
私は青二才であるが、「無知の知」ということを知っているという面では彼らよりもマシである、と思ってしまう程度には傲慢である。
傲慢は罪である。そのことは、自覚しているが、あまりにも「無知の知」がなく他人を非難する人ばかり見てしまうと、どうしても増上慢に陥ってしまうのであるから、怖ろしいことである。
学ぶ会は安倍政権と癒着した結果、宗教法人格を取得する前に宮中茶会に呼ばれたそうだが、天皇陛下の「政治利用」ならぬ「宗教利用」とは如何なものか。
学ぶ会の幹部には、総裁家の人間は一人もいない。正統な生長の家と、ときみつる会は総裁家の方が率いている。
まぁ、そんな下らない宗教争いに巻き込まれるのは、もう嫌なのだが。
何はともあれ、ときみつる会は安倍政権の売国政策を否定しており、「帝国憲法の復原・改正」を訴えておられるのは、素晴らしい。
生長の家とときみつる会が、いつぞや同じ鞘に収まる日が来てほしいものである。
「天皇国・日本」の実相顕現運動は消滅せず
他人に「人の悪口を言ってはならない」と言っている者は、往々にして自分の方が悪口を言っている者である。
かつて『理想世界』誌の編集長であった岡正章氏のブログ記事を読んで、生長の家の大物行使であった方さえもその例外ではなかったことを知り、私は残念な気持ちになるのである。
岡氏曰く――
雅宣総裁は、なぜ 「生長の家が大好き、『生命の實相』 が飯より好き、谷口雅春先生のために、そして日本国家のために命を投げ出したい」 と不惜身命の活動を続けてきた熱心な信徒に対し、“井戸に逆さにして宙づり” するような、ひどいことをなさって来たんだろう」 と考える。
彼にとって、谷口雅宣先生は「不惜身命の活動を続けてきた熱心な信徒に対し、“井戸に逆さにして宙づり” するような、ひどいことを 」してきた存在のようである。
とにかく、総裁と教団の悪口を言わないといけない、という妙な使命感を持った方が「生長の家」の看板を掲げ、そして安倍政権をも支持しているのである。岡氏も安倍政権の支持者である。
つまり、岡氏は自分は以下のような安倍政権の朝敵路線には目を瞑っておきながら、谷口雅宣先生については激しい言葉で非難しているのである。
権力者への批判はしないが、自分がかつて仕えた上司の批判はする。実名でされるだけ、匿名で他人の悪口を言われる方よりもよほど潔いが、残念なのは岡氏の言論活動が「天皇国・日本」の実相顕現ではなく、その真逆の朝敵売国政権の原動力となってしまっている、という厳然たる事実である。
今回、『”新しい文明”を築こう』という本の上巻が出版された。
本書を読んだとき、本来「大東亜戦争」とあるべきところが「太平洋戦争」と記されていて、最初は気分が悪くなったのを告白しておく。私は別に教団への無批判な追従者ではなく、教団について疑問に思ったことは率直に口にする正確である。
言うまでもないが、多くの場合は私の方が間違っているであろう。教団の本部講師の皆様が、20代前半の若造よりも愚かなはずがないからである。また、講師は人に教えるのが仕事であるから、特に本部講師についてはそれが職業であるから、私が疑問に思ったことについてはきちんと懇切丁寧に教えてくださることのできる方ばかりであると信じるし、そうでないものは給料泥棒であろう。
言うまでもなく、岡正章氏もそうである。元本部講師である以上、私のような若造の主張の誤りを指摘するのは造作もないことなはずなのであるから、岡氏が「いや、安倍政権こそが「天皇国・日本」の実相顕現に適う政権である」ということを教えて下されれば、私もきっと納得するのであろう。
そういう作業をせずに、一方的に教団の悪口を言うから、私は残念に思うのである。
繰り返すが、私は未熟な青二才である。教団にしろ、本流にしろ、私よりも未熟な人間はそう相違ないであろう。逆に言うと、もしも私よりも御教えに詳しい訳ではないのにその組織の幹部として給与を得ている者がいたら、それは「未熟な青二才、以下」なのに信徒の浄財から給料を得ている「給料泥棒」であるから、直ちに腹を切ってお詫びするべきだと思うが。
本部も是正してくれていることのはずだが、生長の家青年会の全国幹部研修会では、「ノーミート、ノーミート」を言いつつ、参加者に鶏肉粉末入りのふりかけを出したのが、今の教団である。
肉を食うのがいけない、というのではない。堕胎をした経験がありながら光明化運動に参画している方もいるぐらいである。しかしながら、口では「肉を食べるな」と言いながら肉を食事に出すのは、それは詐欺であるからよろしくない、という至極当然のことを言っているだけである。
私がこのことを言うと本部は調査して下さると言ったが、その後コロナ騒動も起きているから、結局どうなったかは知らないが、私の指摘によって教団も姿勢を改めてくれたのだとしたら有難いことである。
さて、この「太平洋戦争」の表記であるが、本流派はこれを「教団左傾化の証拠」というだろうが、実態は違うであろう。
谷口雅宣先生は一貫して「大東亜戦争」の表記を使用している。極稀に「太平洋戦争」を併記していることもあるが。
嘘だと思うならば谷口雅宣先生の著書やブログ記事を確認していただきたい。ほぼすべて「大東亜戦争」である。
だから、谷口雅宣先生は決して「太平洋戦争」という表記が正しい、と言っている訳ではないだろう。もしもそうであるならば、自分の著書なりブログなりで「これまで大東亜戦争と言っていたが、それは間違いであって、やはり太平洋戦争と表記するべきである」とおっしゃっているはずだからである。
事実、本書では年代を西暦で表記する理由も明記している。「太平洋戦争」と表記する理由に明記がないのは、恐らくだが、大した理由がないのであろう。
なので私は今後も「大東亜戦争」の表記を用いる。
教団が左傾化していない証拠に、本書には「『生長の家』信徒行持要目」が再掲されており、その冒頭には次のように記されている。
一、天地一切のものに感謝すべし。
天皇の恩、国の恩に感謝しなさい。あなたの父母に感謝しなさい。あなたの夫または妻に感謝しなさい。あなたの子に感謝しなさい。あなたを支え、手伝ってくれる多くの人々に感謝しなさい。天地のすべてのものに感謝しなさい。
ハッキリと、冒頭に「天皇の恩」と書いてある。それも「国の恩」とは分けてある。
この要目の内容も本書収録の際に改訂されているので、この部分をそのまま維持したのは総裁先生の意思である。
「天皇国・日本」の実相顕現の灯は消えていない。
おまけ