生長の家正統派青年のブログ

生長の家青年会一信徒の個人のブログです。正統な宗教法人「生長の家」は1983年に自民党と訣別し、2016年以降は全ての国政選挙で自民党不支持を訴えています。ブログ記事の文責は教団ではなく私個人にあります。

阪田成一氏の裁判における「部分社会の法理」適用に関する社会事業団の反論について

 生長の家の神示を阪田成一氏が自身の個人的な通信に引用したことが著作権侵害であるとしてホンリュウ派団体「公益財団法人生長の家社会事業団」(以下、社会事業団)が提訴し敗訴した事件(令和4(ワ)5740著作権等に基づく差止等請求事件)で、実質的に“全面勝訴”した阪田成一氏はそもそもこの裁判には「部分社会の法理」が適用されると主張していたが、これについては判決で却下されていた。

 しかしながら、「部分社会の法理」を適用せずとも阪田成一氏が勝訴したことは事実であるものの、この「部分社会の法理」に関する阪田成一氏及び社会事業団並びに令和4年12月19日東京地方裁判所判決の見解を分析することは今後多くの生長の家信徒にとって参考になることであるため、以下分析させていただきたい。

 

『光明の音信』第9号事件の概要

 令和4(ワ)5740著作権等に基づく差止等請求事件(以下、『光明の音信』第9号事件)は、生長の家の元本部講師である阪田成一氏が発行している『光明の音信』第9号に社会事業団の許可を得ずに「声字即実相の神示」が引用されたことを「著作権侵害」であるとし、神示の著作権を有する社会事業団が阪田成一氏を提訴した事件である。

 これは正統な生長の家の信徒にとって三つの意味で注目するべき裁判であった。

 第一に、これはホンリュウ派の団体である社会事業団を原告とし、同じく従来ホンリュウ派の理論的指導者の一つと目されていた阪田成一氏を被告としている、即ち、原告と被告の双方がホンリュウ派であると言う、極めて珍しい構図であったという点である。

 社会事業団が正統な生長の家と対立し、自ら「生長の家本流運動」なるものを自称するホンリュウ派の団体であることは言うまでもないが、阪田成一氏自身も谷口雅宣先生が生長の家の法灯継承者であることを否定する内容の論文を安東巌氏らが発行する『真理に生きる』に寄稿し、その論文がホンリュウ派の論者によって利用されるなど、少なくともホンリュウ派は阪田成一氏の論文等を自身の主張の理論的支柱の一つとしていたことは紛れもない事実である。

 にも拘らず、阪田成一氏をホンリュウ派の社会事業団が訴えたことについては、多くの正統な生長の家の信者からすると驚きを隠せなかった。

 第二に、神示の引用の是非が争点となっていたことである。住吉大神が大聖師谷口雅春先生に下された神示は、ホンリュウ派の団体である社会事業団が著作権を有しているため、仮にその引用を社会事業団の許可なく行うと(ホンリュウ派と友好な関係にあったはずの阪田成一氏であっても)訴えられるのであれば、ホンリュウ派と対立している正統な生長の家の信者はいつ訴えられるか、判らなくなってしまう。

 第三に、この裁判において後述の通り阪田成一氏が「部分社会の法理」を主張したことである。

 これは第一と第二の点に比してあまり注目されているとは言えないが、阪田成一氏はこの裁判を「同一宗教団体内の教義に関わる紛争」と見做しており、状況からして正統な生長の家の教団から社会事業団を含むホンリュウ派の諸団体、さらには阪田成一氏らどの団体にも所属していない人間をも「同一宗教」の信者であるという認識を示していると解釈できるのである。

 このことは、阪田成一氏が実はホンリュウ派の人間と大きく見解を異にする部分であると考えられるので、ここに考察させていただきたい。

部分社会の法理を巡る両者の主張

 判決文より阪田成一氏と社会事業団による部分社会に関する主張を引用する。

 まず、阪田成一氏の主張は次の通りである。

 

 本件では、神示という宗教上の教義の位置付けが問題となっており、同一宗教団体内の教義に関わる紛争であるから、宗教団体という部分社会内部の争いとして、司法審査になじまないものであり、訴えの却下は免れない。

 これに対して社会事業団の反論は次の通りである。

 

 原告事業団は公益財団法人であって宗教法人ではないし、原告光明思想社は出版業を営む株式会社である上、被告は原告らいずれの構成員でもないから、宗教団体内部の争いであるという被告の主張は前提を欠く。また、本件は教義の位置付けが問題となっている事案ではなく、著作権(複製権及び出版権)の侵害が問題となっている事案であるから、司法審査の対象となる。

 

 それぞれの主張内容を纏めてみよう。まず、阪田成一氏の主張のポイントは次の三点である。

 

  1. 本件は神示という宗教上の教義の位置付けが問題となっている。
  2. 阪田成一氏と社会事業団は同一の「生長の家」という宗教団体(部分社会)に属している。
  3. 生長の家」という宗教団体の教義に関わる紛争は部分社会内部の争いである。

 

一方、社会事業団の反論のポイントは次の三点である。

 

  1. 本件は教義の位置付けが問題となっている事案ではなく、著作権の侵害が問題となっている。
  2. 社会事業団はそもそも宗教法人ではなく公益財団法人である。
  3. 阪田成一氏は社会事業団に属している訳でもないから部分社会の法理が適用されると言うのは前提を欠く。

 

 ここから明らかになるのは、阪田成一氏は生長の家という「宗教団体」を「宗教法人生長の家」よりも広い、ホンリュウ派に属する財団法人や株式会社、さらには如何なる組織にも属していない自分自身をも包括する、大きな「部分社会」であると考えている、ということである。

東京地裁の判断

 これについて東京地裁は②と③の争点には言及せず、専らそれらの前提となる①の争点について判決を下した。次の通りである。

 

 そこで検討するに、被告の主張は、本件訴訟が裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に該当しない趣旨をいうものと解されるところ、本件訴訟は、後記4のとおり、著作権に基づく請求の当否を決定するために判断することが必要な前提問題が、宗教上の教義、信仰の内容に深く関わるものとはいえず、その内容に立ち入ることなくその問題の結論を導き得るものと認められる(最高裁昭和51年(オ)第749号同56年4月7日第三小法廷判決・民集35巻3号443頁、最高裁昭和61年(オ)第943号平成元年9月8日第二小法廷判決・民集43巻8号889頁各参照)。

 そうすると、本件訴訟は、法令の適用による終局的解決に適するものとして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」に当たると解するのが相当である。

 

 これについては、阪田成一氏の部分社会の法理適用を否定したという解釈も可能ではあるが、実際には「宗教上の教義、信仰の内容に深く関わるものとはいえず、その内容に立ち入ることなくその問題の結論を導き得る」というところが重要なポイントであろう。

 即ち、生長の家の教義について「その内容に立ち入ることなく」社会事業団の敗訴が決まった、ということである。

 というのも、社会事業団は阪田成一氏による神示の引用が「正当な引用ではない」として訴訟を起こしたわけであるが、これについて東京地裁は「公正な慣行」該当性と「目的上正当な範囲内」該当性の二つの観点から阪田成一氏による引用が正当であるとし、「被告が本件出版物に本件著作物を掲載した行為は、著作権法32条1項の規定する引用に該当するものと認めるのが相当である」から「その余の点について判断するまでもなく、原告らの請求は、いずれも理由がない」「原告らの請求はいずれも理由がないから、これらをいずれも棄却する」としたのである。

 そして、そうした判断において生長の家の教義が如何なるものであるかは関係しなかったのであるから、「法令の適用による終局的解決に適するもの」とした東京地裁の判断は妥当であったと言える。

 しかしながら、そのため部分社会の法理に関する阪田成一氏と社会事業団の間の認識の違いは放置されたままとなった、とも言える。

「宗教団体」と「部分社会」

 宗教団体に部分社会の法理が適用されることについては、判例が存在する(平成12(ネ)1490平成13年9月21日大阪高等裁判所判決)。

 

このような社会 ないし団体は「部分社会」と呼ばれることがあるが,その中には,政党,労働組合,宗教団体,学校,地方議会,公益法人等各種各様の団体が存在しており,それぞれ存在理由ないし性格を異にするものであるから,一律に「部分社会」であることをもって司法権が及ばないと解するのは適切でなく,その団体の存在理由ないし性格に即して司法権の及ぶ限界を論ずるべきである。

 

 

 それではここでいう「宗教団体」の定義は何か、ということが阪田成一氏の主張の当否を判断するものとなる。

 社会事業団は「原告事業団は公益財団法人であって宗教法人ではないし、原告光明思想社は出版業を営む株式会社である上、被告は原告らいずれの構成員でもないから、宗教団体内部の争いであるという被告の主張は前提を欠く」とするが、それは阪田成一氏が自分たちと同じ法人を構成していないから「宗教団体内部」の関係とは言えない、ということであろう。

 しかしながら、阪田成一氏が「宗教団体」と言う時、それは「宗教法人」又は「宗教活動をしている法人」という意味で用いていたのであろうか?

 そもそも財団法人の構成員という概念も一般的ではない。社団の社員に該当するものは、財団法人では評議員、株式会社では株主であって、阪田成一氏も自身がそれに該当しないことは十分承知のはずであり、まさか自分が「原告らいずれの構成員」であるから「部分社会の法理」を適用せよ、と言った訳では無いはずである。

 そこで宗教団体の定義を『宗教法人法』に基づいて引用すると、こうなる。

 

第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。

一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体

二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体

 

 

 もっとも民事訴訟においては法律の文言はしばしば柔軟に解釈されるし、とくに宗教に関する訴訟においてはその傾向が強いが、この法律を参考にすると阪田成一氏は恐らく次のような意味で「部分社会」たる「宗教団体」だという表現を用いたのではあるまいか。

 

  • 宗教の教義を弘めるという目標を共有している。
  • 同じ宗教の儀式や行事を行っている。
  • 同様の施設に置いて礼拝を行っている。

 

 つまり、阪田成一氏が自分と社会事業団の間に次のような共通点があったと解釈していたのだとすれば、同じ「部分社会」の一員であると主張したのも納得できる。

 

  • 人類光明化運動を共に行う同志である
  • 神想観等の行法も行う仲間であるのみならず共に行事を行ったこともある仲間である
  • 教団の礼拝施設(或いは、日本橋道場等のホンリュウ派の礼拝施設)はその法人の構成員だけでなく自分や社会事業団を含む全ての生長の家信徒のために開放されているはずである

 

 そうであるとするならば、共に「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する」仲間であって、しかも共有の「礼拝の施設を備え」ている訳であるから、一つの宗教団体との要件を備えているし、別々の法人に分裂していたとしても人類光明化運動の同志であるという以上は一つの「部分社会」の構成員のはずである、という解釈が可能となる。

ホンリュウ派と阪田成一氏の「分派」観

 前節の内容は私の推測に過ぎないが、裁判の争点にはなっていないものの、ホンリュウ派による阪田成一氏への批判ではこれと関連する論点のものが見られる。

 それが「分派」論争とも言うべきものである。ホンリュウ派の破邪顕正氏(ホンリュウ派団体の幹部と目される)は、阪田成一氏が『光明の音信』第1号にホンリュウ派を「分派」と表現したことをこう非難している。

 

ところが、「阪田氏」は、『光明の音信』を発刊するに当たり、その第1号において、「谷口雅春先生を学ぶ会」と「ときみつる會」が宗教法人となったことを挙げて、こう難じたわけです。

〈とうとう『生長の家』も、〝分派〟が出来てしまったのかと、なんともやる瀬無い気持ちと尊師谷口雅春先生、輝子先生に申し訳なく断腸の思いで一杯になりました〉

ここで、重要なのは、「阪田氏」は、「谷口雅春先生を学ぶ会」だけではなくて「ときみつる會」も同列に批判していることです。

ご存じのように、谷口恵美子先生は、「ときみつる會」を主宰されている宮澤潔先生のところに身を寄せておられるわけです。

その「ときみつる會」に対して、「阪田氏」は、〝尊師谷口雅春先生、輝子先生に申し訳なく断腸の思いで一杯になりました〟と書いたわけです。

だったら、そういう「ときみつる會」に身をよせられた谷口恵美子先生の行動もまた好くなかったということになりはしませんか。

それより何より「阪田氏」は〝分派〟が好くないというのであれば、だったら、どうしたら好かったのか、それをきちんと言うべきであります。

結局、「阪田氏」もまた、そのまま教団に残り続けるべきだったと言うしかないのだろうと思うのです…。

〝分派〟批判の、それが論理的帰結だからです。

破邪顕正「「阪田氏」はかくも厳しく〝分派〟批判をした以上、『誰でもできる「石上の行」』への論評を書くべきではありませんか。」https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=3428

 

 

 ここで破邪顕正氏が「分派〟批判の論理的帰結」が「そのまま教団に残り続けるべき」だとしていることは、重要なポイントである。

 阪田成一氏が社会事業団の構成員でないにもかかわらず自身と社会事業団を同じ「部分社会」の一員として裁判で主張したのに対し、破邪顕正氏は「分派を作るのに反対するならば教団に所属せよ」と主張していることになるからである。

 いわば、阪田成一氏が「部分社会の法理」を主張しているのに対して、破邪顕正氏らホンリュウ派は「別社会の教理(?)」とも言うべき主張をしているようである。

 分派を批判するならば「そのまま教団に残り続けるべき」だという破邪顕正氏の主張や社会事業団の「被告は原告らいずれの構成員でもないから、宗教団体内部の争い」では無いという主張からは、同じ組織の構成員ではない人間は「内部」ではなく「外部」である、という認識が透けて見える。

 なお、もしも阪田成一氏の主張が私の想定通り組織の所属に関係なく同じ宗教団体の一員として認められるべきであるというものだとするならば、それは教団とホンリュウ派の共存を可能にするものであると言えるが、これに関する見解は別に述べることとしたい。

家族計画の是非は「女性が喜んでその計画に同意」しているかで判断されるべき

 今の時代では高校の保健科の教科書でも家族計画を立てることが推奨されており、避妊法を弘めることが一般に良い事であると認識されている。

 アセクシャルである私にとっては、避妊をしてまで性行為に拘る人の気持ちはいまいち理解できないが、私の信仰する生長の家においては避妊を行うことは否定していないどころか、むしろある面では推奨されている。

 「ある面」と言うのは、女性が「喜んで」立てた家族計画に基づき避妊する場合であって、このことを生長の家初代総裁谷口雅春先生はこう述べられている。

 

 それでは産児調節は全然まちがっているのであるか、人工流産は無論のこと避妊による計画妊娠とか家族設計というようなことも悪いのであるかという質問も、諸方から来ているのでありますが、堕胎と避妊とは罪の軽重において非常に相違します。家庭において家族設計の為の計画妊娠をするということは、それは妻たる女性が喜んでその計画に同意する場合には、それは妻の人権の不尊重ということにはならないと思います。

谷口雅春『心と食物と人相と』114~115頁)

 

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 但し、ここでは女性が「喜んで」その計画に賛同していることが絶対条件である。「嫌々」「止むを得ず」の「同意」というのは、女性が「喜んで」いない時点で、その人権を尊重しているとは言い難いのである。

 例えば、政府が避妊を推奨したり逆に少子化対策を名目に出産を推奨したりすることについては、谷口雅春先生は女性に対する人権侵害であると考えておられた。

 

戦争でも起こって人的資源を必要とするときには「生めよ、殖えよ」と言っておきながら、機械が発達して労働力があまり要らなくなると、「生むな、殖やすな」と言うのでは、人間を機械力の代用のように考えている訳であり、特に、女性を「時代の必要に応じて増産したり、操短したりする子供を生む機械」のように考えることは、女性の人権を無視したものであろう。

谷口雅春『霊供養入門』196頁)

www.ssfk.or.jp

 


 

 そのように考えると、家族計画ですら女性の意思を十分に尊重しなければならないのに、所謂プロチョイスが「女性の自己決定権」として中絶を擁護しておきながら、その一部が「育てられないなら産むな」等と言う“半強制的堕胎”論を主張しているのは、お腹の中の赤ちゃんの生命を軽視している上に、女性の人権も無視しているものであって、言語道断の主張なのである。しかしながら、そのような主張に賛同している助産師もいたりするので、如何にこの国に生命軽視・人権軽視の思想が蔓延しているのであるかが判るのである。

 また、かつて緊急避妊薬を巡る議論の際にプロチョイスの政治家(彼は医師でもある)が「男性による緊急避妊薬の悪用」を危惧するツイートをしていたが、これは彼氏が彼女に対して緊急避妊薬を強制的に飲ませるようなことを念頭に置いているらしいのであるが、今の日本では彼氏が彼女に避妊を強要するケースよりも中絶を強要するケースの方が多いのである。女性側が子供を産みたいと願っていても男性側が中絶を強要していて、それで一般社団法人いのちを守る親の会へ相談にきて妊婦さんと赤ちゃんとが救われた、という話は山ほどある。

 こうした問題について谷口雅春先生はこう述べられている。

 

 単に数量的な人口問題や、食糧問題だけの理由のために、女性の天性を無視した堕胎や優生手術を公許するということは、横暴な男性をしてますます女性を“性の快楽のための道具”としてのみ扱わしめるに至り、男性の“性快楽の道具”としての役目さえつとめたら、その“母性”は保護しないでもよいというような立法になっているのであります。この点からいえば、女性の人権尊重と堕胎公認や避妊推奨とは並行して両立することはできないことは明らかです。

谷口雅春『心と食物と人相と』110頁)

 

 

 このように堕胎は勿論、避妊についても女性を「性快楽の道具」として扱うために行わせることは、女性の人権の尊重と両立しないというのが生長の家の教えであって、それは私も同じ意見である。

 最近は政府が「計画妊娠」を推奨するようなことはプライバシーの侵害として行いにくくなっているが、女性を「性快楽の道具」として見る風潮は、リベラル・フェミニストからネトウヨまで数多くの人間が風俗擁護やAV擁護を主張していることを鑑みると、谷口雅春先生の時代よりもむしろ今の時代の方がその点は酷くなっていると言える。

 生長の家だけでなくプロライフ(生命尊重派)の人間の多くが売買春のような女性への人権侵害に反対しているのであるが、少なくないプロチョイス(生命軽視派)の人間は表向き「中絶は女性の権利」と言いながら性産業を擁護しているのである。つまり彼らの言う「女性の権利」とは生命軽視のための言い訳であって、本気で女性の人権を尊重する気など毛頭ないという事である。

 さらに近年のリベラル・フェミニストは「自己決定権の尊重」を振りかざして「代理出産」までも認めようとしている。

 代理出産については谷口雅春先生の時代には無かった問題であるが、生長の家現総裁・谷口雅宣先生はこう説かれている。

 

 私は、数年前に出した『今こそ自然から学ぼう』(2002年、生長の家刊)の中では、代理出産に関してあまり書いていない。しかし、精子卵子の提供、受精卵の提供、卵子の遺伝子融合などの生殖補助医療技術を含めて、倫理的にどう考えるべきかの基準を1つ示した。それは、「子を親の幸福追求の手段とする」べきでないということである。これは、すでに現在いる自分の子が、多少なりとも自分の幸福追求の手段となっているとの現実があったとしても、それ以上に“罪”を重ねるなという意味である。代理出産の場合は、生まれてくる子に加えて、代理母となる人間を自分の手段として利用するという側面があるから、倫理性はさらに疑わしい。

(谷口雅宣「代理母をどう考えるか?」小閑雑感)

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 私は代理出産の問題に関しては、すでに「反対」との見解を本欄などで表明している。その理由は、2006年10月3日と同16日の本欄で述べているので、詳しくはそちらを参照してほしい。が、ごく簡単に言うと、この方法は自分の幸福追求のために他人を手段として利用するから、倫理的に好ましくないということだ。この「他人」とは、「生れてくる子」と「代理母」の最低2人はいて、双子が生まれれば3人となり、夫以外に精子提供者が参加すれば、4人に増える。そういう人々が、100%の善意によって代理出産に協力するとは考えにくい。

(谷口雅宣「代理出産は原則禁止へ」小閑雑感)

www.ssfk.or.jp

 


 

 このように代理出産代理母となる女性と生まれてくる子供の2人の人生を依頼主の欲望のために利用するという事であり、女性の権利と赤ちゃんの生命とを奪う堕胎強要と本質的に同じ問題を孕んでいる。

 無論、堕胎強要の場合と違って赤ちゃんの生命を奪う訳では無いし、代理出産であると女性が金銭的対価を条件に同意をすることもあるであろうが、「お金の為に仕方なくすること」は決して「喜んで」行っていることでは無いのであるから、その点は人権尊重の観点から問題なのである。特に貧困の女性が多い状況においてはそうである。

 それは風俗やAVの問題でもそうであって、女性が風俗やAVに「お金の為に」出ているのであればそれは「喜んで」やっていることかと言うと、疑問符がつくものである。また、お金を受け取ることを「喜んで」いるとしても、排泄物(精液もその本質は排泄物である)や排泄器を素手で触ることまでを「喜んで」いるかは別問題であるし、仮にそういう変態趣味の方が一部にいてもそれを一般化して立法してはならないことは明白である。

 リベラル派は「自己決定権」という言葉を免罪符のように使うが、保守派は一般に「自己統治」の考えに立つ。自己決定権は「個人が,個人的な事柄について,公権力から干渉されることなく,自由に決定する権利」(マイペディア)であり、自己統治は「組織や個人が、外部からの影響を受けることなく、自ら規律を定め、自らの意思で自らの行動を律すること」(デジタル大辞泉)である。この両者は似ているようで対立することがある。

 つまり、経済的理由や他人からの圧力(彼氏による強要や「育てられないなら産むな!」という声の合唱)を受けて中絶を決断することは、妊婦が決断した時点で「公権力から干渉されることなく、自由に決定」したことであるので、自己決定権の観点からは問題ないことになる。しかしながら、自己統治の考えからすると、その妊婦さんが「私は胎児の生命など尊重するべきではないと考えている、むしろこの場合は中絶するべきである」という風に自分でルールを作っていて、それに該当するから中絶するというならばともかく、多くの女性はお腹の中の赤ちゃんにもいのちが宿っていると思っていて、お腹の中の赤ちゃんのいのちを尊重してほしいという強い願いを持っているのであるから、そういう場合に止むを得ず中絶をすることは「自ら規律を定め、自らの意思で自らの行動を律すること」に当て嵌まらず、専ら「外部の影響を受けて」行われた決断であり、自己統治の考えに反するのである。

 ただ、自己決定権と自己統治の考えの違いなどと言う小難しい議論をするよりかは、まず当人が本当に心の底から「喜んで」いるかこそが大切であると考える。これは今話題の多産DV等にも当て嵌まる話である。

戦争は「やめようと思えばいつでも消えてしまうもの」である

 世間では戦争を無くすなどという事は絵空事である、と言ったことをこれ見よがしに言う者がおり、むしろ「戦争は無くならない、このことが判っている俺は賢い、リアリストだ」とでも自慢したがっているものも少なくないように感じられる。

 しかしながら、戦争というものはいつでも無くすことが出来る。何故ならば戦争は実在では無いからである。

 生長の家初代総裁である大聖師・谷口雅春先生はこう説かれている。

 

問 私たちの心が想うから悪い現象があらわれるというのは、具体的に言えばどういうことですか。

答 たとえばですね、私たちが戦争を思い浮かべる。ソ連では、アメリカは侵略者であり帝国主義者であるから、何時その尨大な物量と科学的兵器に物を言わせて攻めて来るかも知れぬと思うから、それを防ぐ準備として原子兵器を準備しなければならぬと想う。アメリカでは、ソ連共産主義による世界征服をねらっているのだから、それを防ぐために、原子兵器をたくわえなければならぬ。誘導弾を、もっと発達させなければならぬと想う。この想うことが「想念」ですね。その想念の具象化(形にあらわれること)によって色々の恐るべき武器ができる。そして武器をそんなに造っていると、武器を人の心が見てちょっと使ってみたい誘惑が起こる。そしてついに互いに火花を散らすようになる。すなわち、戦争は心に於いて先ず始まるというユネスコの考え方も吾々の考え方と同じなのです。

問 「戦争は心に於いて先ず始まる」としても、その起こっている戦争は実際に存在するのではありませんか。

答 それは、私たちの心の反映としてアラワレているものとしては存在しています。しかし、それは実在ではないのです。実在とは本当にあるもので、それは神につくられた存在で、確乎不動に厳とした存在で、人間の心のあり方で消えたりあらわれたりフラフラするような存在ではないのです。ところが戦争は、人間が人を憎むことをやめ、物質に執着する心をやめ、戦争をやめようと思えばいつでも消えてしまうものなのです。人間の心の変化で左右されるようなものは、人間の心の影であって、実在ではありません。それは、“現象”というものに過ぎません。

谷口雅春『人間そのものの発見とその自覚』日本教文社、116~117頁)

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 戦争は私たちの心によって作られるのであるから、心によって無くすこともできるのである。宗教の最大の役割はそこにある。

 宗教の仕事を病気治しだとかあの世での救いだとか言う風に思っている者は、如何に熱心に信仰していても、熱心な利己主義者であるにすぎない。

 従って、生長の家を信仰する者は政治に無関心であってはならないのである。

 私たちが平和を心に描いて政治に参画すると、必ず政治に平和な心が反映されて、日本のみならず世界が平和となる。逆に、防衛費増税と言う風に自国民の生活をも犠牲にして軍備を拡張するとなれば、そもそも自国民の生活が平和にならない、そうなると心に平和を描くことが難しくなるので、却って戦争を招きかねないのである。

 実際、ソ連アメリカと軍拡競争をした結果、アメリカとの戦争に勝つどころかあべこべに自国の経済を崩壊させてしまって国家自体が消滅したのである。

 戦前の日本もよく「中国戦線では勝っていた」という者がいるけれども、中国戦線においても大量に軍備を投入していた結果、経済には大混乱をきたしていた。そのような愚を再び犯すことがあってはならない。

 

日本建国の精神は「八方の国々が合意して平和を実現すること」

 今日は建国記念の日です。日本建国の精神について、生長の家総裁谷口雅宣先生はこうかたられています。

 

 この建国記念日は、『古事記』や『日本書紀』に記された日本の神話にもとづくものです。神話は歴史ではありません。現在の世界のほとんどの国々では、近代の民主主義革命や現代の独立記念日建国記念日になっています。これは昨年も申し上げたとおりです。だから、世界のほとんどの国の建国は歴史にもとづいて理解されているが、日本とお隣の韓国ぐらいのごく少数の国が、有史以前の神話にもとづいた建国記念日をもっている。これは大変珍しいことで、世界に自慢できることの1つだろうと思います。

 しかしその反面、神話にもとづいているというそのことに、1つの問題が内包されています。それは、近代や現代の歴史的事象に建国の基礎を置く国々では、“建国の理想”とか“建国の精神”というものが「憲法」や「独立宣言」などの歴史的文書の中に明確に記されており、その解釈にあまり異論を差し挟む余地がないのです。しかし、神話にもとづいて建国を定めた場合、神話というものはその性質上、様々な解釈が可能な一種の“文学作品”でもあります。だから、“建国の精神”が何であるかは人によっていろいろに解釈できる。そういう意味で、戦前・戦中に「紀元節」としてこの日が祝われていた当時、日本の建国神話の中の様々な出来事や言葉について--例えば「八紘一宇」という言葉について--当時の政権の都合のいいような解釈が強制されたのです。このことを私たちは忘れずに、同じ間違いを2度と繰り返してはならないと思います。

 そういう過去もあったので、残念なことですが、現在の日本では「建国の理想」についての国民的な合意がまだできていません。だから、一方には「戦前・戦中の紀元節と同じ日を建国記念日にすることは戦前の日本へ還ることにつながる」として反対する人々が大勢います。またその逆に、他方には戦前・戦中の考え方は正しいとして、それが「建国の理想」だととらえる人もいます。私たち生長の家では、そのいずれの立場とも違うのであります。それは、谷口雅春先生が説かれたように、日本建国の精神とは「武力によって世界を統一することではなく、神意にしたがって、八方の国々が合意して平和を実現すること」だと考えます。そして、そのことは『日本書紀』の神話にも明確に書いてあるのです。この話は昨年もしましたが、大切なことなので繰り返してお話しましょう。

 神武天皇が国を統一する際、一番の強敵だった長髄彦(ながすねひこ)という人がいました。神武天皇長髄彦と戦ったときに大変苦戦をされて一度退却されます。お兄さんの五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢に当たって重傷を負います。そういう経験をされた天皇は、それまでの自分のやり方に何かまずい点があったのではないかと考え、神々に聴いてみる。すると、神からの次のようなお告げがあったと『日本書紀』には出ています。重要な部分なので原文を引用します:

「今我(いまやつかれ)は是れ日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此れ天道(あめのみち)に逆(さか)れり。若(し)かじ、退き還りて弱きことを示して、神(あまつやしろ)祇(くにつやしろ)を礼(いや)び祭(いわ)いて、背(そびら)に日神(ひのかみ)の威(みいきおい)を負いたてまつりて、影(みかげ)の随(まにま)に圧踏(おそいふ)みなんには。此(かく)の如くせば、曽(かつ)て刃に血ぬらずして、虜(あた)必ず自ずからに敗れなん」

 このように、神武天皇は、自分が太陽神である天照大神の子孫でありながら、太陽に向って進軍していたのでは神の御心にかなわないと判断された。つまり、苦戦の原因は神意に歯向かっていたからだと考えられ、いったん退却してからその土地の神々を祀られて、背中に太陽を負ってもう一度進む--即ち、神の御心に従って進む。そうすれば、血を流さずに敵は自ら降参する、と述べられたわけです。このことから分かることは、「常に神の御心を聴き、真理の光を背負って進む」のが日本の建国の理想であるということです。「真理の光を背負う」とは、真理に歯向かわず、「ハイ」と言ってしたがうことです。自分の利益を優先せずに、神意に聴き、正しいことを素直に実行するということです。そういう精神が、日本の神話に表れた建国の精神であるということが、もっと多くの日本人の間で合意される必要がある、と私は思うのであります。

masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com

 

 

 それでは「神意にしたがって、八方の国々が合意して平和を実現する」とはどういうことなのか。

 生長の家第二代目総裁である大聖師谷口清超先生はこう述べられています。

 

 つまり全ての人々は、小さな自分の殻に閉じ籠らないで、多くの人々のために、よい事をし、愛を与え、徳を積まなければならない。それは個人でも国家でも同じことである。日本が広く全世界に貢献すればするほど、日本は益々健康となり、繫栄するのである。つまり国力がのび、多くの国々から愛され、期待される立派な国に成長する。

 ところがこの向きに逆行すると、どんなに愛国者的にみえても、結局は国を亡ぼす方向につき進んで行く。

(谷口清超『真・善・美の世界がある』日本教文社、223~224頁)

 

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 本当の愛国とは日本が世界に貢献する国になることであり、それは日本建国の精神の実現でもあるのです。

 これは生長の家という一宗教団体が勝手に言っていることでは無く、そもそも天皇陛下の大御心です。

 今上陛下は即位の際、こう述べられました。

 

 さきに,日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに「即位礼正殿の儀」を行い,即位を内外に宣明いたします。

 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間,常に国民の幸せと世界の平和を願われ,いかなる時も国民と苦楽を共にされながら,その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに,改めて深く思いを致し,ここに,国民の幸せと世界の平和を常に願い,国民に寄り添いながら,憲法にのっとり,日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。

 国民の叡智とたゆみない努力によって,我が国が一層の発展を遂げ,国際社会の友好と平和,人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。

(「即位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば」)

 

 

 このように天皇陛下は常に日本が「国際社会の友好と平和,人類の福祉と繁栄に寄与すること」を願っておられます。

 この大御心を輔翼して国際平和に貢献することが、我々国民の義務であると信じます。

note.com

皇后陛下とはいかなる御存在か

太后陛下

 

 保守を自称するものが何故か、皇后陛下や皇太后陛下を非難しているのを見るにつき、私の中で抑えきれぬ思いが湧いているので、自身の青二才を承知で傲慢にもこの一文を書かせていただく。

 皇后陛下とは如何なる御存在か、等と言う大層なことを私のような若造が語るのは不敬にも程のあることである。私よりも目上の方が「お前みたいな青二才が何を偉そうに」と𠮟責をしたとしても、私はそれを甘受するつもりでいる。

 しかしながら、目上の者が目下の者に謙虚であれという時、それは彼自身が率先して自分よりも目上の者に礼を尽くしていることが前提である。自分が目上の者に例を尽くさずして目下の者を指導するような者は慙死しなければならない。これは当然の理である。

 何故このような前置きを書くかと言えば、所謂「保守」を名乗る者の中に、皇后陛下や皇太后陛下に対してあまりにも不敬なことを言う者が散見されるからである。

 凡そ皇后陛下や皇太后陛下よりもエライ臣民などは存在しないのであって、皇室制度の廃止を訴える左翼ならばともかく、苟もその左翼を日頃攻撃しているものが皇后陛下や皇太后陛下に不敬な言動をしようものならば、忽ち慙死の義務が発生すること、言うまでもない。

 江戸時代の勤皇家である竹内式部は、皇后陛下について次の如く語られている。

 

「皇后に奉公し給ふも同じ事なり。皇后ハ 大君と並び給ふ御方にて、天地陰陽日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬ひ給ふべし。」

 

 つまり、皇后陛下に対しては天皇陛下に対するのと同じように敬わなければならぬ。

 天皇陛下皇后陛下とは「天地陰陽日月」のような関係である。これは竹内式部の独自の説ではなく、聖武天皇宣命にもあることである。

 聖武天皇光明皇后立后為される際の宣命に曰く――

 

「天に日月在る如、地に山川有る如、並坐して有るべしと言ふ事は、汝等王臣等明けく見知れる所在り。」

 

 この宣命をやや文体を崩して読み下すと、こう言うことである。

 

「天に月日が在る如く、地に山川が有る如く、並んで坐して有るべしという事は、汝ら王臣たちが明らかに見知る所である。」

 

 そういうことで皇后陛下は特別の地位を持っておられる、その最大の特徴は、位階を超越しているという事である。

 高い位階を授けようと思うならば、政治力によって強引にこれを叙位することはできる。岸田首相は安倍元首相に従一位の位階を授けた。岸田首相にとって安倍首相は正二位である原敬渋沢栄一乃木希典犬養毅よりもエライという事である。

 しかしながら、原敬渋沢栄一乃木希典犬養毅らはなまじ位階などという者を持っているから安倍さんに超えられてしまうのである。皇后陛下や皇太后陛下はそもそも位階を持っていないのであるから、如何に高い位階を政治力で手に入れても、皇后陛下を超えることは出来ない。

 神社の神様の位階も正一位が最高である。従って、皇后陛下や皇太后陛下は神社の神様よりも偉い方々なのである。

 無論、左派の皆様が「今は国民主権の世である、皇后がエライ等とは思わない」と言うのであれば理解はできるが、苟も保守派の人間が一方で「天皇陛下万歳」と言いながら皇后陛下に不敬な言説を為したり、或いは、皇太后陛下に「上皇后」なる珍妙な称号を押し付けたりするのは、盛大な矛盾である。そのような者に保守を名乗る資格は無いのである。

これには驚くほかはない

 則天去私氏のブログを読んで驚いた。

私は現在の「生長の家社会事業団」に本当に腹が立っています。数百人を結果的に私達を騙してしまったということです。それは『生長の家教義研修講座』で講師になりたい人は挙手して下さいと手を挙げ、今後に活動を期待していますので、講師バッチを購入し、名刺を作成させて、そのまま音沙汰がない。

tecnopla1011.blog.jp

 私も彼の名刺を受け取っている。だから社会事業団講師の彼がどうして阪田成一氏の側に立っているのか、疑問に思っていたが、事情が判った。

 則天去私氏はブログでは激しいことを書かれているが、実際にお会いするとブログの口調からは想像できないほどお優しい方で、総裁先生のこともブログでは激しく非難されているが、実際には学ぶ会に(教団にも)いるような、口を開けば総裁の悪口を言うような方ではない。

 社会事業団の講師規定にはこうある。

生長の家講師は、国法並びに公益財団法人生長の家社会事業団講師規程(末尾の誓約書を含む。)及び当公益法人生長の家講師委員会」の指示等を遵守しなければならない。 

 名称を「生長の家講師」としているのはいただけないが、それよりも、この規約を持つと講師に対して何の「音沙汰」もないと言うのは不審である。

 「指示に従え!」と言っている以上、「指示」をしないとオカシイのに、音沙汰なしであったという。一体、どういうことか。「音沙汰がない」の状態でどう「指示に従え」というのか。

 トキ掲示板においては「よく読むと」氏がこう述べている。

何を何処でする講師かも確かめもせず、研修会を受講しただけで任命される、講師資格を得ようとした即天去私さんの迂闊さ、また事業団がなんの目的で講師を募るための教修会を開催し、其の講師を阪田氏に依頼してきたのか、見通せなかった智慧のなさ、これらが相まっての今の現実であろうと考える次第。

公益財団法人生長の家社会事業団講師規程がありますのよく読んで判断した方がよいのではないでしょうか。/本音の時代さん

正論ですね、詐欺論に乗っかるのはいただけない。

 無論、教団の言い分には十年近くも耳を貸さず、社会事業団の話を鵜呑みにしていた人が「今さら」のように被害者面することに関しては、私も過去に非難している。

snitennoukokunippon.hatenadiary.com

  この記事についても「勝手に引用をするな!」という、怖ろしいイチャモンが来たのを覚えている。

 が、則天去私氏はそのようなイチャモンを言う方ではないし、被害者面をしているわけではない。講師規定に「指示に従え」とあるのに音沙汰が無かったら「話が違う」と思うのは当然のことだろう。

 ところで、同じスレッドで本音の時代さんが興味深い投稿をされている。

生長の家教義』研修講座に参加した経験から (54668)
日時:2022年12月03日 (土) 10時51分
名前:本音の時代

私の場合は、まさに『生長の家教義』を学びなおしのため参加しました。この中で、講師申請の話があり、講師希望者も数人いたと記憶しています。資料を見ると、〇生長の家講師申請・履歴書 〇講師規定 〇誓約書 〇名刺と徽章の申し込みチラシと振り込み用紙 が渡されたものと思います。

参考資料
http://www.seichonoie-sj.jp/img/organ_8.pdf

私は札幌での研修でした。これを見ると講師希望者は15名でしょうか。

 興味深いのは、彼が貼った「参考資料」である「躍進する生長の家社会事業団 夏号(No.8)」の次の一節である。

総裁の実相を祈って正していくというより、信仰の喜びの輪を広げることをもって、総裁、並びに教団のまちがいに対して異議申立をしていく。

 これだけ読むと「総裁の実相を祈ることよりも、総裁並びに教団に異議申し立てをしていく方が、大事だ!」と言う意味に解釈できる。

 調べるともっと詳しい文章がインターネット上にHN「破邪顕正」氏によって掲載されていた。彼は生長の家社会事業団の役員では無いはずだが、別団体の代表でありながらわざわざ社会事業団の機関紙の編集もされているようだ(そうでないとここまでフレーズの同じ文章が掲載されることはあり得ない)。

《質問》総裁先生の実相を祈って、正していくということはできませんか? (9761)
日時:2018年07月13日 (金) 18時54分
名前:破邪顕正


表題のようなご質問を受けることがまま、あります。

こういうご質問を受けてまず感じるのは、この「正す」という意味合いなのですね。

心の奥底に、今の総裁はオカシイという思いがあるからこそ、何とか「正していく」ということを考えないといけないのではないかという思いが吹き上がるのだろうと思うのです。

総裁はオカシイ。

そういう思いを持ちつつ、実相を祈るというのは、果たして、どうなのでしょうね。

谷口雅春先生も『女の浄土』の中でこうお書きになっています。

《〝相手を良くしよう〟と思うのは逆観念であり、逆作用になる》(37頁)

問題は、それより、総裁の〝今の教え〟が素晴らしいと思う信徒がいることなのです。

そういう信徒によって教団が支えられている以上、私に言わせれば、それはもはやどうしようもない現実として受け取るべきであると思うのです。

総裁の考え方に従って教団が進んでいく以上は、それはもはや止めようがない、それはそれで致し方ないことと受け入れるべきであると思うのです。

だからこそ、私たちは、生長の家現教団を脱退したわけです。

総裁の教えは尊師の教えとは明らかに違う、根本的に違う、相容れない教えである。

そこまで違ってしまっているのに、そこにいることは信仰者として許されない。

そう判断したからこそ脱退したわけです。

そして、尊師の教えを歪めず、過たず、純粋に後世に伝え遺すという使命に燃えて「谷口雅春先生を学ぶ会」に集っているわけです。

尊師の教えを学ぶことがどれだけ魂の悦びとなるか。

その喜びの輪を如何にして広げていくか。

そこにしか、私たちの関心はもはやないのです。

なるほど、私たちは、その一方で、総裁の言動に対して、いろいろと批判を呈したりはしています。

しかしそれは、何よりも、総裁のそれが尊師の教えとは如何に違っているか。

それを明らめるためにこそやっていることなのです。

それでなければ、なぜ、私たちが教団を脱退したのか、それが説明しえませんからね。

敢えて、表題にある「正す」ということに拘るならば、私たちは、総裁の実相を祈って正していくというよりかは、私たちの信仰の喜びの輪を広げることをもって、総裁、並びに教団に対して異議申立をしていく。

谷口雅春先生を学ぶ会」が更に更に大きくなっていけば、当然、それは総裁、並びに教団にとって大きな脅威となるでしょうし(現に、そうなっているからこそ、私どもの講演会に急遽、行事をぶっつけて、しかもそこに様々な役を申しつけて講演会に参加できないように、信徒を縛っているわけですが)、教団の中に、この路線でいいのかという反発、抗議の声を上げる、その後押しにもなるのではないかと思うのです。

私たちは、脱会して、外からの刺激を与える。

それに触発されて、内から、教団を正そうといううねりが生じるやもしれない。

まあ、それは今の段階では淡い期待にしか過ぎませんが、しかし、信徒がこれまで以上に激減し、教団経営が厳しいものとなれば、案外、そういううねりが起きないとも限らない。

そういうことで、私たちは、尊師の教えを広げること、そのための真理講演会、光明講演会をどんどん開催し、支部・拠点を陸続と生み出していくことに邁進してまいりたいと思っている次第です。

その方が、本来の「生長の家」を取り戻す上で、より効果的で実際的であると思うものであります。

 色々と書いてあるが、総裁先生の実相を見る気もないし、自分たちで教団を良くする気もない、と解釈できる。

 そもそも今の教団が教義を改変しているというのは学ぶ会によるデマであるが、それはともかくとして。

 そんなに教団が嫌いな割には、講師の数は圧倒に教団の方が多いのに、自分たちの講師へは音沙汰なしとは、驚くほか無い。一体、何に向かって「邁進」しているのだろうか?

大聖師・谷口雅春先生は支那事変は日本に非があると認めている

 インターネット上で大聖師・谷口雅春先生が大東亜戦争を「侵略戦争」と読んでいたという文章が指摘されると、自称「生長の家本流運動」に属する則天去私氏がブログでそれは占領下の検閲によるものであると主張し、谷口雅春先生と武藤貞一氏の共同論文である「日本は侵略国ではない」を紹介している。

 しかし、私自身が既に指摘しているように雅春先生は昭和58年12月号の『理想世界』誌に掲載された文章「私は今後絶対に「戦争」を起こさせたくない」で「日本軍の南京大虐殺と云う四十数年後の今も尚忌々しい汚名を払拭することのできない日本兵の深刻なる残虐の歴史が刻まれる悲劇が生じた」と明記しており、戦後になっても支那事変を含む大東亜戦争(国内法では、大東亜戦争には支那事変も含まれる)について南京事件等の負の側面があったことを認めている。

 一方で、則天去私氏が紹介した論文はそもそも武藤貞一氏との共著であるから、谷口雅春先生の思想がストレートに反映されている訳では、無い。

 その上、則天去私氏からの孫引きになるが、その共同論文においても決して「日本は侵略をしていない」とは書いていないことが判るので、則天去私氏のブログから一部を抜粋してみたい。

 この論文は日本が「現在は」侵略国では無いというものであって、序論の部分にはこう記されている。

 今日、世界広しといえども、戦争放棄憲法に明記している国は、日本以外のどこにあるだろうか。自衛隊は米占領軍の命令によって創設されたものであるが、占領解除、独立後も、日本はあくまで憲法に準拠して、いわゆる専守防衛に徹し切っている。その後、ソ連の驚異的軍事力大増強に伴い、わが固有の北方領土にまで軍事基地を構築するに至って、北海道をはじめ、わが本土が直接侵略の脅威に暴される事態となったが、なお日本国民の防衛意識は極めて稀薄であり、アメリカから防衛力強化について矢の催促を受けながらも、なお日本政府は頑として応ずる気配を見せない。そしてわずかにGNP1%未満の軍事費をもって極限としているのである。

 これを見ると、当該論文は日本が「戦争放棄憲法に明記している」ことを肯定的に評価しているということが判る。

 実際、谷口雅春先生は先述の『理想世界』の記事において「どんな理由があるにしても、その弊害の方が大きいので私たちは戦争をしないように、常に国際関係を調節して行かなければならない」と述べられ、また『私の日本国憲法論』では「この“戦争放棄”の条項は、ぜひとも改正しなくとも自衛隊や国防軍をもつことができないわけではないから、この第九条の戦争放棄のみが問題であるならば、日本国憲法の改正を必要とする必須の問題ではない」と述べられている

 また、則天去私氏が引用した論文でも日本に非があることは認めてある。

 近衛内閣の不拡大方針か示したように、日本車は、中国側の「ここまでお出で」政策に、つい引っかかって、のめり込んで行った。非はもちろん日本軍にある。だからこそ、日本は開国以来初めてという大刑罰を受けたのであり、日本はこれ以上果たしようのないほど物心両面の報いを甘受したのであった。

 繰り返すが、この論文は谷口雅春先生と武藤貞一氏との共著であるから、細かい文言までもが谷口雅春先生の思想ということは出来ない。

 生長の家長老の妹尾壽夫先生は谷口雅春先生の大東亜戦争観についてこう纏めておられる。

 このように見てくると、谷口雅春先生は大東亜戦争の「理想」と「現実」について説かれたと言うことができると思います。
 つまり、当初は「大東亜戦争の理想」を説かれて「皇軍」や「聖戦(解放戦争)」を唱えられ、その後、岡村大将から「大東亜戦争の現実」を如実に知らされるに及んで、実際の日本軍や戦争は「皇軍」や「聖戦」などではないと否定されます。そして、公職追放解除以降は、自己否定的な反日本論が渦巻く中、「皇軍」や「聖戦」などではなかった「大東亜戦争の現実」を認められる一方、天皇制をはじめ日本民族の理想や誇りを守るため、再び「大東亜戦争の理想」を説かれました。
 しかし、このことは、谷口雅春先生が大東亜戦争のことを「正しい戦争」だとか「聖戦」であるとして再評価されたのではないことを理解する必要があります。先生は昭和五十八年十月号の『生長の家』誌「明窓浄机」欄で、戦争の勝敗は内面的には「どちらの軍隊が一層道徳的で神意に叶うものであるか」によって決定する、と述べられています。つまり、これを言い換えれば、日本軍は大東亜戦争で敗れたわけですから、対戦相手に比べて一層神意に「叶わなかった」という結論に導かれると思います。
(妹尾壽夫「大東亜戦争をめぐる“評価”の変遷」谷口雅宣監修『歴史から何を学ぶか』所収、太字は引用者)

 この妹尾壽夫先生の評価は私も大いに納得するものである。谷口雅春先生が「現実の戦争」を肯定されるはずがない。

 なお、谷口雅春先生と大東亜戦争の関係については、以下の本も参考になる。

 

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